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『神は見返りを求める』 | |||||
監督・脚本 吉田恵輔 | |||||
主宰者からの「ムロツヨシと昨年のキネマ旬報主演女優賞を受賞した岸井ゆきの共演の、ブラックユーモア感ある心理サスペンス。SNSは今や私たちの生活に欠かせないものとなりましたが、便利さとは裏腹に闇バイトなどの犯罪や選挙戦での悪用など問題てんこ盛りと言える世界です。(日常的に、不審メールや詐欺メールに悩まされていませんか?) 本作は、SNSの便利さと楽しさ、それを通じてとめどなくエゴが拡大・拡散していくことの恐さを描いた作品です。…監督は『ヒメアノ~ル』 『空白』 『ミッシング』の吉田恵輔。岸井ゆきのさんが主演女優賞を獲得したのは、『ケイコ目を澄ませて』とともに本作の演技があったからです。」とのお誘いメールを受けて観てきた。時代性を巧みに捉えた舞台設定のなかで、人の人へのコミットの仕方と変化という実に普遍的な生態をデリカシーに富んだ筆致で描出していて大いに感心した。 最後には田母神(ムロツヨシ)からも、ゆりちゃんこと川合優里(岸井ゆきの)からも、ダメ出しをされる梅川(若葉竜也)の見透かされていた姿が印象深い。誰に対しても真摯なるコミットをしない生き方をしてきていることへの虚しさに彼が気づく日がくるにはまだまだ時間が掛かりそうな風情が今どきというものを端的に捉えているような気がした。彼のような人物は、いつの時代にも存在したし、これからも絶えないだろうけれど、相対的な比率が非常に高くなっているのが今どきの日本社会だという気がしてならない。 田母神や優里のような人たちを冷笑的に眺め、小馬鹿にしている感じとそれを当人達には気取られないよううまく立ち回っていると自惚れている感じを若葉竜也が巧みに演じていたような気がする。 野暮ったい中年男の田母神と若く無防備な優里の蜜月期が長くは続かず、優里の交友範囲が広がり、経験値が上がっていくなかで擦れ違っていくのは、ある種の必然なのだけれども、互いに、割り切ろうとして割り切れない部分を抱え、内に残したまま嘗てには戻りようがないさまを二人がよく演じていたように思う。 それにしても、YouTubeの持つ可能性と罪作りを思わずにいられない。それに振り回されるのは、聴視者側以上に制作側の個人だと改めて思った。なかなか怖いツールだとつくづく思う。耳目を集めることの難しさ以上に、それを維持することの困難を思わずにいられない。スタッフワーク抜きにそれを達成できるだけの有り余る才を持つ者は、そうそういるわけではなく、スタッフワークとしてそれを獲得するに従って個人的な思いなど蔑ろにされていくわけで、本来の個人メディアから外れていく。何事にも通じる人の営みの宿命と言うべき“本末転倒”に苛まれることになる。何かを得れば、何かを失う人の営みの真理を捉えてなかなかの作品だったように思う。 すると旧くからの映友ケイケイさんから「男女の愛憎を軸に観た私より、とっても視野が広い感想で、堪能させていただきました。SNSの在り方が進化というより増長してしまった今観たら、また違う感想も浮かびそうです。」とのコメントが寄せられた。彼女の映画日記に「お互いへの憎悪をぶちまける中に、どうしようなく愛情を捨てきれない部分の方が、観ていて心に残るのです。愛の向う岸は無関心です。そうなれない二人の気持ちが、過激な暴露合戦の中に伝わってきて、これは愛をこじらせた男女のお話」と書いているところがまさに、僕が「互いに、割り切ろうとして割り切れない部分を抱え、内に残したまま嘗てには戻りようがないさま」と記してある部分だ。彼女は「凄いわ、監督」とも書いていたが、確かに唸らされる見事さだったように思う。 男女の愛憎という観点からは“好意と行為”という視点が非常に刺激的な作品だったような気がする。田母神自身が繰り返し訴えていたように「好意を踏みにじられた」との思いが、自身の抱く劣等感を刺激して激烈な暴走を促していた。 興味深いのは、恋愛に限らずカネでも性欲でも人は行為に及ぶことができるのに、好意では行為を交わすことができないところに、ある種の普遍性と真理があるように感じられたことだった。恋愛関係ならステージアップであり、カネ・性欲なら目的を満たすうえで必要なこととなるのに、好意においてはそれを汚すことになるように受け止められるのは、その行為のインパクトの強さの証でもあるが、実に含蓄があるような気がする。 “優里の決死”を受け止められなかった田母神の“ダメ”については、ケイケイさんの指摘に同調する部分と田母神の選択に共感する部分との両方が、僕のなかにはある。もっとも、そこで恋人未満の境界を越えていたにしても、その後の展開には然して違いのない擦れ違いと失望が互いに訪れたような気がする。 だが、作品的には、恋人付き合いにまでは発展させていない二人における深いところでの愛憎関係を描いて「好意」を浮かび上がらせているところに味わいがあった。ケイケイさんが「思う存分憎しみをぶつけ合った後、私は愛が残ると思います」と書いている部分は、僕においては「が残る」ではなく「に至る」というところだが、「手負いの優里が、田母神の手を引いて、これからの人生を歩んで行ってくれたら、嬉しい」と僕も思った。 旧くからの映友シューテツさんも「これ、私も感想書いています」と寄せてくれた。僕が時代性を巧みに捉えた舞台設定と記したのは、まさに彼が「ユーチューブを題材にした作品は日本映画では私は初めて見た」と書いている箇所に呼応する部分だ。まさしく映画観賞の醍醐味だと思う。彼はまた感想に「最低限あらゆる出来事に「それは間違っている」「それはヘン」という事をしっかりとした理由で説明できる様になりたい」とも記していたが、折しも兵庫県知事選を巡るYouTube動画のもたらした、両陣営にまつわる極端な情報に人々が振り回され、送り手も受け手も不本意な思いを抱く状況が生じていて、印象深い。 すると「どんなメディアが出来ても、リテラシー、リテラシーって受け手側ばかりに要求するけど、テレビだって誕生して普及して70年以上経過しても結局、受け手のリテラシーなど高くならないままだし、ネットも同様の運命の様な気がします。大体受け手よりも送り手側の質の悪い悪質な行き過ぎを、誰(どの機関)もキッチリと取り締まらないのが大問題なのですけどね。」とのコメントが返ってきた。それはそうなのだが、取締り以外の淘汰方法はないものだろうか。 映倫やBPO【放送倫理・番組向上機構】のような組織をプロバイダー側が合同で作り、自主規制するような形が望ましいのだけれども、この業界が応えてくれそうな気がしないのがいかにも今風で、何とも心許ない。 | |||||
by ヤマ '24.11.27. 美術館ホール | |||||
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