『ケイコ 目を澄ませて』
監督 三宅唱

 澄ますのは耳で、目なら凝らすか見開くだろうにと訝しんでいたら、聴覚障碍者である女性ボクサーの物語だったので、そういうことかと得心した。縄跳びのロープが刻む規則正しい音の響きで始まり終わる映画を観ながら、生活の糧としての稼ぎだけでなく、生の糧としての生業というかライフワークを得ている人の幸いというものが静かに沁みてくる味のある作品だと思った。姉の小河恵子(岸井ゆきの)にとってのボクシングは、プロデビューしているのだから、弟の聖司(佐藤緋美)のギターとは比較にならないにしても、聖司も録音取りなどしてただの趣味程度ではない取り組み方をしているように感じた。

 五年前に観た三宅作品きみの鳥はうたえるとトーン的には近いものを感じながら、同作に感じた“何だかなぞったような拵え物感”に通じるものを覚えなかったのは、小笠原恵子が自身の経験を綴った著作を原案としているからだろうか。著名な役者が少なからず登場していながら、見事に役者的オーラを消し去って、いかにも市井人的な佇まいを見せていたからかもしれない。そういうなかにあって目を惹いた人物造形は、荒川ジム二代目会長(三浦友和)からの信頼篤い林(三浦誠己)・松本(松浦慎一郎)というトレーナーの両名だった。身のこなし、言葉遣いが板についているように感じた。

 ラフプレイに動転した恵子が敗れてしまったコロナ禍の無観客試合のあと、「よぉ~し」と声を出していた会長の姿と、試合中につま先を踏まれて喫したダウンが故意によるものではなかったであろうことに気づいた恵子が10キロロードを再開し始めたと思しきラストに、荒川ジムの閉鎖は見直されることになりそうな気がした。エンディングにおいて静かに規則正しく、縄跳びの音が再び響いていたのは、そういうことではなかろうか。

 また、マスク戒厳令とも言うべきコロナ禍において聴覚障碍者の被っていた難儀や、飲食業者以上に厳しい経営を余儀なくされたと思しきジム経営者、不要不急の名のもとに興行が果たせなくなった事業者などの苦境が、声高になく映し出されていて、時代風俗を捉えた作品としても大いに目を惹いた。

 そういう点において最も印象深かったのが、警察官二人による職務質問の場面だった気がする。聴覚障碍者であることが判っても外そうとしないマスクのままでの職務質問、女性が顔面に打撲傷を負っていることに気づいても、特段の訴えがなければ、職務質問を中断して去って行こうとする無関心というか無責任、決められたことを通り一遍に遣り過ごすことに流れ、そもそもの趣旨や目的など眼中にない有様が、職務としての従事者においても常態となっている今どきというものをよく描き出していたように思う。

 作り手には、コロナ禍の禍の部分における重大事にそれが影響しているとの考えがおそらくあるのだろう。かつての職業人は、もう少し己が職務に対して誠実な職人肌を受け継いで従事していたような気がする。目を澄まさなければいけないのは、ケイコだけではないということだ。必要なのは才能ではないのだ、器量なのだから。

 思えば、現今の不寛容な硬直社会におけるコロナ禍のなかで最も露わになっていたのは、現代人の器量というものが如何に小さくなっているかということだったような気がする。そのようなことにも想いを馳せさせてくれる実に触発力に富んだ作品だったように思う。大したものだ。




推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20230110
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5672719079494295/
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by ヤマ

'23. 3.27. あたご劇場



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