『ソウルの春』(12.12: The Day)
監督 キム・ソンス

 こういう作品を観ると、改めて目先の利権のために軍備を強化することの危うさを思う。軍部が暴走し始めると、古今東西、制御など効いた例がないような気がする。そして暴走を促すのは常に力への慢心であるように思う。本作でも全斗煥(チョン・ドファン)をモデルにしたチョン・ドゥグァン少将(ファン・ジョンミン)が、盧泰愚(ノ・テウ)をモデルにしたノ・テゴン少将(パク・ヘジュン)に、人間というのは、強い者に指導されたがるものだと傲然と言い放っていた。実際のチョン・ドファンがどのような人物だったのか知らないけれども、僕のなかでは「パンケーキを好む御仁」と重なるイメージがあるのは、風貌から受ける印象があるのかもしれないと改めて思った。

 いずこの世界でも観られることではあるけれども、グレシャムの法則は侮れないと、これまた改めて思う。いまの我が国の政治状況を思うと、韓国映画ながら時宜を得た作品だと思った。

 ハナ会による軍事クーデターを制しようとした首都警備司令官イ・テシン少将(チョン・ウソン)のモデルになった将軍がいかほどの人物だったかは知る由もないが、本作で小心者の極みとして描かれていた防衛大臣に当たる国防部の長官オ・グクサン(キム・ウィソン)や陸軍参謀次長ミン・ソンベ中将(ユ・ソンジュ)とは対照的な人物だった。全斗煥と盧泰愚があれほどの関係だとは思っていなかったので、些か吃驚した。

 奇しくも十年前に刊行された『教団X』<集英社>を読んでいるなかに何か巨大なものに従う快楽が警官を支配していく。P441)とのフレーズがあった。むろん訓練された警官や兵士たちに限った話ではなく、社会から多様性を認め尊重する空気が奪われていく過程で大衆を動かす原動力となるものは、この快楽だろうという気がする。

 そして、今回の尹韓国大統領の非常戒厳発令に対する国会の戒厳解除決議の顛末と市民の動きを観ると、先の米大統領選や兵庫県知事選とも同じく“何か巨大なもの”なるものにおける個人発信や個人メディアの影響力の大きさを思わずにいられない。軍事力や警察力といった暴力装置を動かす力(いわゆる権力)の巨大さを上回るものがあるようだ。

 全斗煥がクーデターを起こした1979年当時に今のようにケータイとSNSが普及していれば、本作でチョン・ドゥグァン少将が叫んでいた失敗すれば反逆罪!成功すれば革命だ!で言うところの反逆罪の側に転んでいたような気がした。ドラマを観る限りにおいて、勝敗を分けていたのがクーデター側の盗聴による情報戦での優位によるものだったからだ。
by ヤマ

'24.11.17. あたご劇場



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