『聖なる鹿殺し』(The Killing Of A Sacred Deer)
監督 ヨルゴス・ランティモス

 何とも妄想色の濃い物語展開に、一体どういう映画なのだろうと少々訝しく思いながら観ていたら、最後の場面で、もしかするとこれは、父親を心臓外科医の手術ミスで殺されたとの思いに囚われている十代のマーティン(バリー・キオガン)が、執刀医(コリン・ファレル)の家族連れの姿をファストフード店で思いがけなく見掛けたことから想像した妄想譚ではなかろうかという気になった。

 表出できないままに抑圧していた怨恨を迸らせた想念の凄みに、彼の見舞われていた喪失感の深さを観るような気がした。バリー・キオガンの表情の不気味さと、ニコール・キッドマンの御年五十の躰を張った熱演に感心し、『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』に引き続き、何とも災難な役どころの続いたコリン・ファレルが妙に可笑しかった。

 ただ総てをマーティンの心に湧き上がってきた想念だと解するのは、何だか夢オチのようにもなってしまい、いかにも落ち着きが悪い。その一方でおかげで、父親の死によって家族を壊されたと思っている青年が相応の家族崩壊を執刀医に求める“静かで執拗な怨念”というものを、イメージ豊かに遺憾なく表現し得ているようにも感じられた。

 執刀医の家族四人を眺め渡すと、息子も含めた男たちに比して妻娘なる女たちが断然、生き延びることへの執着心が強いように見受けられた。女性の強さの源泉というのは、その生存欲にあることが浮き彫りにされていたような気がする。それからすれば、スティーヴンもボブ(サニー・スリッチ)も何とも脆弱に見えて仕方がなかった。殺された聖なる鹿とは、いったい何だったのだろう。単純にマーティンの父親やスティーヴンの息子を指しているのではない気がした。スティーヴンのみならずアナ(ニコール・キッドマン)や娘キム(ラフィ・キャシディ)が捨て去り葬ったものをも仄めかしているような気がしてならない。

 
by ヤマ

'18. 3.11. 新宿シネマカリテ



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