『オッペンハイマー』(Oppenheimer)
監督・脚本 クリストファー・ノーラン

 冒頭で「1.核分裂」とクレジットされたカラー画面による、“原爆の父”たるロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の姿と、「2.核融合」とクレジットされたモノクロ画面による、彼を抜擢したのち妬み誹謗するルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の姿とを対照させるなかで、オッペンハイマーの罪深さ以上に、彼に毀誉褒貶を与える節操なき世間の危うさとろくでもなさを炙り出している気がした。

 数式を楽譜として、その奏でる音楽を板書しているときを除いて、物理教室の実験でも社交の場でもセックスの場面でも至って冴えないオッペンハイマーが歴史上の重要人物となったのは、画面で示されていたとおり、美術でのピカソや音楽でのストラヴィンスキーのように、原子核の分裂などという破格の事象を眼前に示したことによるわけだが、その事実と、彼のアビリティではなくパーソナリティの凡庸さとの乖離に、改めて驚きを禁じ得ないように思った。核兵器にまつわる人物としてのろくでもなさなら、本作に現れたトルーマン大統領(ゲイリー・オールドマン)やら朝鮮半島に原爆投下をしようとしたマッカーサーのほうがずっと上回っている。

 自分は揺れ動いてばかりいると零した若きオッペンハイマーに私も揺れたいわと言ったジーン(フローレンス・ピュー)の台詞に、予想通りベッドシーンを繋げるばかりか騎乗位で身体を揺らせる彼女を映し出したことに、場内で失笑が漏れたような判りやすさと遊び心が充満しているのはいいのだが、編集の交錯によって誤魔化してはいるものの、些か一本調子に過ぎる運びで三時間の長尺というのは厳しいような気がした。

 核兵器のもたらした惨状に係る日本側の描写が欠落しているとの批判があると仄聞して、四十年近く前にプラトーン['86]を観たときのことを思い出した。日誌にベトナム戦争を描きながら、べトナムの側の視点がないという批判を受けるかもしれない。しかし、そもそもベトナム戦争そのものを描くというよりもベトナム戦争下のアメリカの一小隊を描くのが作り手の意図でもあり、そういった意味では、史実としてのベトナム戦争というインターナショナルな視点は最初から考えていない、極めてドメスティックな立場の作品なのであると記したのと同様のことが言えそうに思う。本作のタイトルは「核兵器開発」でも「原爆投下」でもない。『オッペンハイマー』なのだ。

 もっとも、人は己が観たいものが得られなかったら不満を言うものだから、批判ではなく不満と解するならば、いかにも然もあらんという気はする。核兵器のもたらす惨状そのものについては、原爆投下自体は描かれていなくても、黒焦げの人体やら皮膚の剥がれ落ちる姿やら、現場を観ることなく惨状を伝え聞いたオッペンハイマー自身のなかに呼び起こされたのであろうイメージが、それなりにきちんと映し出されていたように思う。

 オッペンハイマーという人物については、器用でないどころか、むしろ不器用さを過度に打ち出している感があったように思う。足跡を追う分には、二ヶ月ほど前に観たNHK番組映像の世紀バタフライエフェクト「マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪のほうが平明でいいのだが、一筋縄でいかない彼の人物像をどう捉えるかは、やはり映画の本領としたものだ。尺の長さと違って、少々飽き足りない感じはあったが、キティの強妻ぶりは、なかなかのものだったように思う。夫に対してというのではなく、我が家を保たせていくための強妻だったような気がした。描きようによっては内助の功的にも描けそうだから、時代が異なれば、そういう演出になったのだろう。キティが実際どういう女性だったのかということ以上に、映画は時代を映す鏡であることを改めて強く感じた。
by ヤマ

'24. 4.19. TOHOシネマズ9



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