『TANNKA 短歌』['06]
監督 阿木燿子

 公開時に観たっきりの再見だ。三十三歳のフリーライター薫里を演じた三十路に入ったばかりの黒谷友香の艶やかさと、四十路を迎えて原作小説を発表した俵万智の仇っぽさ、還暦を過ぎたばかりで本作を撮った才長けた阿木燿子、それぞれの良き部分が合わさり、思いのほか面白く観たのは、初見時と変わりがなかった。

 映画の作り手が作詞家だけあって言葉を大事にしている感じが好もしい。僕の書棚にあるツルゲーネフの『かた恋』の文庫本は、作中に映ったものと違って『初恋』と合わさった角川文庫版なのだが、久しぶりに読み返してみようかと思ったりした。薫里と十年不倫一歩前の長きに渡って過ごしてきているカメラマン(村上弘明)が彼女を俺のアーシャなどと言っていたので、薫里とアーシャを比べてみたくなったからだ。前世も我は女と思うと詠んだ俵万智の歌には覚えがあり、発芽していく我の肉体とのフレーズと、台詞にあった蛇行する知恵という言葉が印象に残った。

 薫里のインタビューに人生も仕事も恋も“覚悟”よと応えていたベテラン女優(萬田久子)が加賀まりこを偲ばせていたのは、原作者の俵万智に、彼女への憧れがあったからなのだろう。思えば、俵万智も父親を明かさずにシングルで子供を産んだような気がする。最後に薫里がお腹を撫でながら背筋を伸ばして歩いていたのは、それゆえだろう。

 十歳以上の年上と思しきカメラマンとの関係を保ったまま、十歳近く年下の圭(黄川田将也)と付き合い始めた薫里だったが、彼女の親友である、妊活中の美佳を演じていた中山忍がなかなか好かったように思う。人生における自己決定権を尊重しつつも、薫里の生き方に蟠りを抱いている美佳の心情をなかなか巧く表現している気がした。

 暫く放っておかれた後に酔った薫里から呼び出され、激しく求められた翌朝に俺ってこのためにいるのかなぁって考えたりしてと零した圭にそんな言い方しないでと詫びていた薫里だったが、その後の圭が、初めての不如意を見せたり、ヴァイオリンを売り飛ばして自らの夢としていたアラブ音楽を投げ出したりして、失意に見舞われるようになっていたことに対し、美佳の言葉をきっかけにして、自分が圭を傷つけスポイルしていることに気づいたようだった。

 圭には手の届かないはずの値段のバッグに手編みのマフラーまで添えたクリスマスプレゼントをドアノブに掛けて置いてあったのを見つめていたときに、おそらく薫里は圭との別離を決意したのだろう。年が明けて私たち、友達に戻れないかなと告げ、だったら最後にもう一回だけ…したいと抱き付いてきた圭にどうしても?と複雑な面持ちで問い返しながらも応えたことに対して、またしても不如意に見舞われていたことを受けて、蠱惑的なストリップダンスを音楽に乗せて舞って見せ、彼を奮い立たせて後背立位で交わっていたきつくきつく 我の鋳型をとるように 君は最後の 抱擁をするの場面が、なかなか美しかった。

 鸚鵡返しや開いた口が塞がらないの意味さえ知らなかった圭が最後にここんとこ何度も読み返したから暗記しちゃったと『片恋』の最後の一節を暗唱していた。彼は薫里と付き合ってスポイルされたわけではなく、確かに成長を遂げたのだろう。一人になって光合成!と叫んでいた彼にとっての光が薫里なのは言うまでもない。ふと僕の持っている文庫本を開いてみたら、奇しくも圭が暗唱していた箇所に波線を施してあった。角川文庫版ではとるに足りない草花のこんなかすかな香気ですら、人間のあらゆる悲しみをその身に体験し――当の人間よりも長い寿命を保っているというのにねえ。P207)となっていた。51.3/9との日付があったから、高三の三月、国立一期校に落ちたばかりで失意にあるさなかに読んだものだということになる。

 高田馬場の栄通り商店街が映っていたことも懐かしく観た。また、デスク(本田博太郎)が、少子化問題の特集記事について頭でっかちな文章を書いてきた薫里に対して女どもが本気で子供を産みたくなるような、そんな記事を書け。母親になったら、人生が拡がると思えるような記事をなと叱咤している場面が目を惹いた。十七年前の映画だ。当時、それなりの策を講じていれば、いま“異次元の”対策などと言わずに済んだのかもしれないと思うと同時に、異次元と言うからには「母親になったら、人生が拡がると思えるような政策」でなければいけないはずなのに、経済的支援の幅でしか考えてなさそうな政治の貧困にデスクの叱咤を思わずにいられない。

 改めて通読してみた『かた恋』に、例えばガーギンは小声で私に言いました。「あれをけしかけないでください。あなたはあれの気性をご存じないのです。そんなことをしようものなら、それどころかあの塔にも登りかねない女ですからね。…」P139)や天性内気で小心な彼女は、自分の内気が癪にさわり、癇癪まぎれに、無理にざっくばらんに、勇敢にふるまおうとつとめていたのですが、それがいつもきまって失敗に終ってしまうのです。P150)などと描かれていたアーシャのイメージと薫里は、どうも即わない気がした。三十四年前に観たアンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー監督による『愛していたが結婚しなかったアーシャ』という映画タイトルのほうであれば、十年不倫のカメラマンの台詞にあってもおかしくはないけれども、同作はツルゲーネフの『かた恋』とは別物の映画だったような気がする。カメラマンは何を思って「俺のアーシャ」などと言っていたのだろう。
by ヤマ

'23. 3.21. GYAO!配信動画



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