美術館夏の定期上映会
“奇想・空想・幻想映画 の愉しみ”
 https://moak.jp/event/performing_arts/content_3.html
Aプログラム
『未来惑星ザルドス』['74]
 (Zardoz)
脚本・製作・監督 ジョン・ブアマン
『ベネデッタ』['21]
 (Benedetta)
監督 ポール・ヴァーホーベン
Bプログラム
『ニーベルンゲン』[1923]
 (Die Nibelungen)
監督 フリッツ・ラング

 最初に観た未来惑星ザルドスは、三度目の観賞になるが、直近が三年前とわりあい最近なので、内容的には感想に差異がないけれど、大きな画面で観ると割増し感の高い作品だとしみじみ思った。企画上映のチラシにはSF映画史上屈指の問題作と記されていたが、これのどこがサイエンス・フィクションかという、およそ科学性とは乖離した作品で、今回の企画上映のタイトルである「奇想・空想・幻想」に相応しい映画だと思う。


 次に観た『ベネデッタ』は、逆に全く「奇想・空想・幻想」映画ではなく、オープニングクレジットに史実に着想を得た作品であることが記されていた。「奇想・空想・幻想」映画ではないけれどもプログラムに加えたのは、チラシに才能、幻視、狂言、嘘、創造性を駆使して本物の権力を手にしたベネデッタと記しているところからなのだろう。だが、それは映画ではなく、主人公ベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)のパーソナリティなのだから、今回のプログラムには相応しくない気がするけれども、非常にインパクトのある観応えに大いに感心させられた。そして、チラシに記載されているベネデッタ観とは、まるで違うものが表現されているように感じられたところが、非常に興味深かった。

 作り手はベネデッタに対して、現代であれば精神病理を観るようなパーソナリティをイメージしていたように思うから、彼女自身においては、「才能、幻視、狂言、嘘、創造性を駆使」などではないように感じた。神の意志によって為したことであって、自らの意志で創造性や才能を発揮したとは思ってもいないような気がする。ガラス片で額に傷をつけたにしろ、陶器片で掌の傷跡を抉り返したにしろ、神が私の手を使って私の意図しない形でスティグマ【聖痕】を残してくれたのであって、本物の権力を手に入れたくてなどというものとは全く異なるものとして映って来た。

 作り手の宗教観というか、信仰観として描き出されていたのは、神の存在を本当に信じている人の信仰の核心というのは、このベネデッタの精神構造にあるという観方であって、だからこそ、フェリシタ修道院長(シャーロット・ランプリング)や教皇大使(ランベール・ウィルソン)が、ベネデッタに向って私には神の声が聞こえなかったとか(神を観たなどと)嘘を言うなといった言葉を本音の声として発する場面を置いてあるような気がした。

 教皇大使が足を洗ってくれたベネデッタに向けて言った言葉に対して、教皇大使は娼婦の手付きを知っているのかと彼女が問い返す場面を構えたうえで、自分が黒死病に罹患していることに気づいて自ら明かすフェリシタと、どこまでも隠し通そうとする教皇大使を配置しているところには、権力機構においては、上位に登る人ほど腐っていることを思わせる意図が働いているように感じた。

 そのような不届き教皇大使が、フェリシタの訴えによるベネデッタの同性愛裁判に際して、相方のバルトロメア(ダフネ・パタキア)に対して、ジャンヌダルクも音を上げたという女性器拷問にかけて自白をさせようとするのだから凄まじい。ベネデッタが修道院に入る際に母親が持たせてくれた木製聖母像の下半分を削ってバルトロメアが作った張り型などという代物は、現物が遺っているものではなくて、映画的創造なのだろうが、いかにもヴァーホーベン的な不謹慎な挑発力を感じた。だが、それ以上に驚いたのが、バルトロメアとベネデッタの連れ排便の場面での放屁音で、シリアス劇の映画で若い女性の盛大な放屁音を聞かせる場面というのは初めて観た気がする。老いてなお盛んと言うか、さすがヴァーホーベンだと感心せずにいられなかった。惹かれ合う二人の性行為は、脱糞に伴う放屁同様に多少憚られはしても自然の摂理であって、教皇大使の行状のように悪辣なものでもなんでもないわけだ。

 会場で出くわした映友女性とのコーヒーブレイクでBプログラムまでの時間繋ぎをした際には、表現の過激さの点からアンチクライスト['09](監督 ラース・フォン・トリアー)の話が出たのだが、本作で神父に痛みは神と出会う入口だと言わせていたことなども思い当たり、もしかすると作り手は、同作を意識していた面があるのではないかという気付きが得られた。


 ひとときのAプロ談義の後に観たBプログラムでは、これがラングの『ニーベルンゲン』かと、ニ十分の休憩を挟んで五時間に及ぶノン・トーキーのモノクロ作品を飽かせず見せ切る画面の造形力に大いに感心した。ちょうど百年も前の作品なのだが、現代作品でもこの長尺を持たせることの困難を思い、恐れ入った。「第1部 ジークフリート SIEGFRIEDS TOD」が7章148分。「第2部 クリムヒルトの復讐 KRIEMHILDS RACHE」が6章128分。なかなかのものだ。

 この映画も、第1部の最初のほうに出て来る竜退治の場面と、姿を消したり変身させたりする魔法の藁冠のところ以外には、今回のプログラム企画のカテゴリー作品のようには思えなかったが、滅多に観る機会の得られない映画をようやく観ることが出来て、満足した。

 それにしても、余りにも愚かに過ぎるブルグント国王グンテル(テオドル・ロース)、クリムヒルト(マルガレーテ・シェーン)兄妹の振る舞いによって大惨事となっていたことに唖然とした。グンテルの臣下であるトロニエのハゲネ(ハンス・アダルベルト・フォン・シュレットウ)が指摘していた“人殺しよりもタチの悪い口の軽さ”という、英雄に相応しからぬ行為で北国の女王ブリュンヒルト(ハンナ・ラルフ)の腕輪の秘密を妻のクリムヒルトに明かしてしまったジークフリート(パウル・リヒター)が最も愚かだったのかもしれないが、なんとも御粗末で酷いクリムヒルトだったように思う。

 竜の血を浴びて不死身の身体を得た夫の唯一の弱点をハゲネに教えてその死を招くばかりか、再婚したフン族のアッティラ王(ルドルフ・クライン=ロッゲ)がブルグント国王を招いた宴席を戦場に変えてしまい、弟から姉上は、ご自分のなさったことの意味がわかっているのかと非難されるのも尤もだという有様であった。とはいえ、妻の私怨に駆られた暴挙を放置していたアッティラ王も、なかなか情けなかったようには思う。彼の悲嘆は、王国が戦火に見舞われ多くの兵が死んだことではなく、自分がジークフリートのようには妻から愛されなかったことに向けられていた。そして、その魁偉なる容貌に相応しい力強さが微塵もなく、白人女に骨抜きにされたと人々から嘲笑されていた。

 ブリュンヒルトに執心してだらしのなかったグンデル国王とも大差ないアッティラ王だったが、世界史で聞き覚えのあるかの王は、そのような人物だったのだろうか。ブリュンヒルト女王もなかなかに狭量尊大な女性だったが、自覚のない分、クリムヒルトのほうが遥かにタチが悪いような気がした。


公式サイト高知県立美術館



*『ベネデッタ』
推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20230219

by ヤマ

'23. 8.19. 美術館ホール



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