『わたしは最悪。』(Verdens verste menneske)
監督 ヨアキム・トリアー

 成績がいいからというだけで進んだ医学生から、私が関心あるのは肉体より魂だと心理学のほうに転じたかと思えば、詰込み暗記より見つめることがしたいと写真家を志す“気ままな自分探し”に勤しんでいたユリア(レナーテ・レインスヴェ)が、進路と同様、衝動的に男を取り換えて行って独りになっているところから、自身のぼやきとして口を突いたものがタイトルになっていた。

 “誰よりも話ができ、言葉の通う”相手の十五歳年上のコミック作家アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)との同棲を解消したのは、四十代半ばになって家族を持ちたいと願った彼から望まれた子供のこと以上に、彼が華やかな出版記念パーティやら作品の映画化といった成功を遂げていることに対して、自分が何者にもなれていないことへの屈託があるような気がした。負け惜しみのように、何でも説明し言葉にしてしまうことに飽き足らず、言葉より感じることが大事だとして選んだ、同世代と思しきアイヴィン(ヘルベルト・ノルドルム)との暮らしは、“誰よりも自然体でいられる”心地よさがありながらも、今度は50歳になってもコーヒーを出すだけの仕事なんて考えられないと飽き足りなさを感じるなかで訪れた不慮の妊娠と流産を契機に、あっさりと別れていた。

 ある種の実も蓋もない生々しさで以て見事に女性を活写していると感じられたところに、三十年前にジェーン・カンピオンのエンジェル・アット・マイ・テーブルを観てフォトジェニックな面での減退効果などものともしない作り手の毅然とした意志が窺われる。(もっとも、生理的感覚に対する感性のタフさは女性監督ならではのものかもしれないが…。実際、女性客の多くは殆ど気にならなかったようである。と綴ったことを想起したが、観終えて確かめてみると、作り手は脚本共々男性だったことに驚いた。

 わたしは最悪、どころかきみは最高だ。と言ってくれるアクセルは、余命幾許もなくて戻りようがなく、加えて、子供は要らないよねとの自分の言葉に同意していたはずのアイヴィンが子育てに勤しむ姿を目撃する終章がなかなか辛辣ではあったが、美化も嫌悪も見下しもない作り手のまなざしがユリアにとても優しく、少々持て余し翻弄されながらも彼女に惹かれる、二人の男たちの鷹揚さを節度を以て描いていて、好感の持てる作品だった。

 ユリアが終始囚われていたのは、自身に対してもパートナーに対しても感じる“飽き足りなさ”だったような気がした。なまじ才色兼備に恵まれると、得てして起こりがちな生き難さに見舞われた女性を活写していたように思う。代々三十歳で難儀に見舞われていたらしきユリアの母系先祖同様に、彼女の三十歳も、母が気に入っていたアクセルとの同棲を解消する厄年になっていた。北欧ノルウェーでも女性の三十歳というのは、そういう御年頃のようだ。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5295433090556231/
by ヤマ

'23. 1. 4. あたご劇場



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