『続・荒野の七人』(Return Of The Seven)['66]
『新・荒野の七人 馬上の決闘』(Guns Of The Magnificent Seven)['69]
『荒野の七人 真昼の決闘』(The Magnificent Seven Ride!)['72]
監督 バート・ケネディ
監督 ポール・ウェンドコス
監督 ジョージ・マッコーワン

 第1作['60]は、スクリーン観賞こそ'80年に名画座で観たきりだが、その時点でも既にTV視聴は済ませていて、たまたまユル・ブリンナー好きの知り合いの飲み屋の姐さんから、一人で映画館に行くのは気が進まないので奢るから一緒に行ってくれないかと頼まれて『新・明日に向って撃て!』との二本立てで観た後も、TV視聴を一、二度しているお気に入りの西部劇の一つだ。しかし、その後のシリーズ作のほうは、第4作『荒野の七人 真昼の決闘』を翌年の'81年に愛宕劇場で観ているのみで、かねてより宿題映画になっていたものだ。

 続編となる十年後の物語である第2作は、御粗末な出来だと仄聞していたこともあってか、思いのほか面白く観た。前作の七人の生き残りであるクリス、チコ、ヴィンのうち、クリスだけユル・ブリンナーが替わらず引き継いでいたけれども、チコは、ホルスト・ブッフホルツからジュリアン・マテオスに替わり、ヴィンは、スティーブ・マックイーンからロバート・フラーに替わっていた。

 確かに肝心の銃撃戦の見せ方が少々御粗末で、因縁深い敵役のロルカ(エミリオ・フェルナンデス)の動機や振舞いがどうも釈然としないという難はあるけれど、メキシコを舞台に闘牛やフラメンコダンス、闘鶏などによって昂ぶりと闘争を仕立てていた序盤にしても、神父(フェルナンド・レイ)の台詞にもあった“務め”なるものや、ルイス・デルガード(ヴィルジリオ・テクセイラ)が口にしていた“名を上げること”が、人々において生きるうえでの標としてまだ普遍的に意味を持ち得ていた時代であることを前提にした作品であり、そのうえで、臆病なる農民の持つ強さを称揚するという『七人の侍』から続く“荒野の七人の本旨”をきちんと継いでいる点にしても、悪くない作品のように感じた。

 もっとも、それには多分に第1作のエルマー・バーンスタインによる名曲がふんだんに流れる音楽効果が影響を及ぼしていた気がしないでもない。


 翌日に観た『馬上の決闘』は、第3作が引き継いでいるのは、もはやクリスの名前と音楽だけとなれば、邦題に「新・」とせざるを得ないのももっともだという「荒野の七人」だった。臆病で弱弱しく、闘争の苦手な地味な生活者たちに払う敬意も追いやって、七人に限らぬ猛者とその他大勢という態の作品になっていて、敵は、第2作の革命軍の残党ではなく、彼らを制圧する憲兵隊となっていたが、反政府闘争を支持しているわけでもなく、革命を標榜しているロベロ(フランク・シルヴェラ)の有体は散々なものだった。

 男は戦い、女は泣く、それが人生だなどという失笑ものの台詞を嘯いていたのは、マクシミリアーノ(レニ・サントーニ)だったように思うけれど、それにはツッコミをいれていたクリスを演じていたジョージ・ケネディにユル・ブリンナーのようなカリスマ性がなく、妙に芯の欠けた締まりのない作品世界に堕していて、改めてユル・ブリンナーの威力を知ったような気がした。

 七人については、ヴィンに相当するキーノ(モンテ・マーカム)との因縁が不得要領で、子供好きの老ナイフ使いレヴィことリーヴァイ(ジェームズ・ホイットモア)が戦闘で活躍するのは専ら爆薬だったり、黒人のキャシー(バーニー・キャシー)がガンマンなのか炭鉱夫なのかよく判らず、隻腕ガンマンのスレイター(ジョー・ドン・ベイカー)にしても、自ら参加した労咳持ちのモテ男PJ(スコット・トーマス)にしても、付与された属性が作中で充分に活かされているようには思えなかった。クリスの秘策というのが憲兵隊のオフ日を狙っての襲撃だというのも拍子抜けで、しかも戦略的と言うより行き当たりばったりにしか見えないのも物足りない。

 そもそも「荒野の七人」の物語が、屈託を抱えた曲者はぐれ者たちの夢や居場所を求めるものになっては、もはや「荒野の七人」とは言えなくなる気がして仕方がない。最後に勿体ぶって提示された臆病者は何度も死ぬが、勇者は一度しか死なないというのも何だかまるでピンと来なかった。

 憲兵隊を率いる残酷趣味のある女好きの軍人ディエゴ大佐(マイケル・アンサラ)、革命は口実というか標榜しているだけのならず者ロベロ、革命を志す人々のリーダーと目されながら何も成し得ない文人のクィンテロ(フェルナンド・レイ)、人々を率いるに足る器量を欠いた者たちのなかにあって、革命などとは無縁のところにクリスがいたという構成なのだろうが、そのクリスに際立つリーダーシップを感じさせる威光がなかったことが致命的だった。ジョージ・ケネディ自体は味のある俳優だと思うのだが、クリスの配役は、ミスキャストだと思わずにいられなかった。


 四十一年前にスクリーン観賞しているのに、まるで覚えていなかった『真昼の決闘』は、再見してみると思いのほか面白くて、すっかり意表を突かれた。当時、愛宕劇場で観たのは『メイク・ラブ(Take Off)』『USA・ハード・パワー(Olympic Fever)』という洋ピン二作との三本立てだったのだが、AFAA(The Adult Film Association of America)の最優秀監督賞を獲得した『メイク・ラブ』が鮮烈な印象を残したために、どうやら霞んでしまったようだ。

 荒野の七人ということで言えば、クリス(リー・ヴァン・クリーフ)が、ワイアット・アープよろしく伝記刊行を持ち掛けられるような保安官になっていたり、農民たちのために山賊デ・トーロ(ロン・スタイン)と戦うことをクリスに求めてきた昔の相棒ジム・マッケイ(ラルフ・ウェイト)が、クリスの新妻アリラ(マリエット・ハートレイ)を強姦殺人に至らしめた未成年シェリー(ダレル・ラーソン)の奸計によって早々に死んでいたりしていて、農民のための助っ人などではなく、まるで趣旨の異なる作品だという気がした。言うなれば、自分に成り代わって亡妻の仇シェリーを討ち果たしてくれていたジムの弔い合戦の趣と化している別物映画と言うほかない作劇になっていたように思う。

 ジムからの頼みは断って独り死なせ、妻からの頼みのほうは、その浅はかさを知りつつ情に負けて受け入れたことで妻を拉致されてしまったという断腸の思いは、妻の強姦殺人を知った際の“瀕死に追い込まれた銃創の痛みすら吹き飛ぶほどの激しい憤怒”を見せていたクリスの姿によって示されていたが、それゆえに殆ど私怨とも言うべき戦いになっていた。

 だから、デ・トーロ征伐の失敗により村中あげて寡婦となった十七人の女たちから頼まれて、というのは、クリスに随行していた伝記作家ノア・フォーブス(マイケル・カラン)はまだしも、クリスの頭には付加的にしかなかったような気がする。ただ、効率よく交戦準備を進めるためのチーム編成を男女の組合せで設定したクリスのアイデアによって生まれた交流のなかで、クリスが手にしていた特赦状が目当ての各人においても、そのモチベーションが高まっていた。このあたりは、男女ではなく農民との交流という形で原典とも言うべき『七人の侍』に描かれていたものを想起させるところがあって、なかなか好い場面だった気がする。

 早々と落命したウォルト・ドラモンド(ウィリアム・ラッキング)の死を悼み、名前さえ訊いていなかったと零す女性に彼の名を教えてやっていたのは、ペペ(ペドロ・アルメンダリス・Jr)だったように思うが、彼にもまた慕う女性が現れていた。リーダーとして六人のメンバーに但し、一線を超えるなと釘を刺していたクリスがあっけなくローリー(ステファニー・パワーズ)と昵懇になっていたのは、まぁ、得てしてそういうものだろうと可笑しかったが、スキナー(ルーク・アスキュー)の一汁三菜ならぬ三妻には吃驚した。

 それはともかく、第3作と違って戦闘場面に創意と工夫が凝らされていた点が最も気に入ったところだ。第3作のクリスの無策の策とは雲泥の違いを見せていて、ナイフ使いの爆薬投擲ではないエリオット(エド・ローター)の仕掛けが目を惹いた。クリスが真理を見る目を教えてくれたと言っていたのは、ノアだったことに比べ、些か影の薄かったキャプテン・ヘイズ(ジェームズ・シッキング)が気の毒だったが、“務め”や“名を上げること”ではなく、甲斐を見出すことが生きることだという本作の主題は実に真っ当で、観後感も好い作品になっていたような気がする。自身の付けていた保安官バッジをスキナーに託し、去って行こうとしていたクリスが翻意してスキナー、お前はやっぱり助手だと掛けた声に了解、俺もそっちのほうがいいと応えていたスキナーの三人の女性に囲まれて御満悦の姿に笑いを誘われた。エンタメ作品に相応しいユーモラスな好いエンディングだと思った。
by ヤマ

'23. 1. 5,6,7. BS12録画



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