『流浪の月』を読んで
凪良ゆう 著<東京創元社 単行本>


 映画化作品を観てから一か月経たないうちに原作小説を読むのは、自室の書棚にある本の再読でない限り、滅多にないことなのだが、大腸内視鏡検査に赴いた機会に一気読みをして、いかに映画化作品が見事に脚本化していたかを確認出来て、いささか驚いた。

 映画日誌に綴った部分も綴り洩らした部分も含めて、映画化作品によって触発されていた人物像と背景において、これほど差異も作家的潤色も感じなられない読後感というのは初めてのように思った。  ほんの四頁で章もないだろうというような「一章 少女のはなし」にはきょとんとした(P7)けれども、「終章 彼のはなし Ⅱ」で腑に落ち、すとんときた。一章と終章で繰り返されるロリコンなんて病気だよな。全員死刑にしてやりゃあいいのになどという悪魔より質の悪い善魔的な“良識”が幅を利かせがちになっている衆愚的世の中なればこその問題意識が作者にあることが窺えて、映画の作り手が本作の核心部分をより鮮烈に描き出していたことに感銘を受けた。

 両章とも視覚的には映し出されていない場面だけれども、本作が拙日誌に記したある意味、邂逅すべくして邂逅し得た、余人には判らずとも、二人にとっては救いの物語だったということを明示してもいてほくそ笑んだ。亮の“根源的なところでの不安と怯え”と綴った部分も、原作小説には詳述され、文の抱えていた欠落感は、ただでさえ性的な事柄に多感で、不安に囚われやすい年頃にさぞかし過酷だったろうと思わずにいられないと記した部分は、「四章 彼のはなし」に詳述されていた。

 映画化作品の安西佳菜子(趣里)は、原作小説の彼女と平光さんを合わせた役柄にしてあるばかりか、そのマイペースすぎてやばい人(P15)において、更紗の母灯里をも重ねた人物像にしてあったようだ。お父さんとお母さんとわたし、汗をかいたグラスに満たされた薄い緑のエメラルドクーラーとサイダーに光が透けて、夢のように綺麗だ。お父さんとお母さんがやばい人でも、わたしはふたりが大好きで、やばいことになんの不都合も感じなかった(P21)更紗が、安西にだけは懐くのも道理というわけだ。

 映画化作品における「エドガー・アラン・ポーの詩集」が、原作小説では『シザーハンズ』(P54)であり『トゥルー・ロマンス』(P56)であることにも感心し、納得感が湧いた。とりわけ『トゥルー・ロマンス』への言及には触発される点が多々あり、二十八年ぶりの再見をしてみたい気持ちに駆られた。映画化作品において詩集に置き換えている点は、媒体が映画であること以上に、佐伯文の人物造形からも実に適切な潤色だという気がする。

 居場所のなくなった9歳の更紗がわたしは踊り出したい気持ちになった。ちがいを認めるだけでなく、文はこちら側に歩み出してくれたのだ。(P48)という気持ちになって居続けたことに対して、洗脳だのストックホルム症候群だのと言うことへの更紗の憤りについては、なにも知らないくせにとわたしはひどく腹を立て、一方で不安に駆られた(P124)とあってわたしを知らない人が、わたしの心を勝手に分析し、当て推量をする。そうして当のわたし自身がわたしを疑いだし、少しずつ自分が何者なのかわからなくなっていった。長い時間をかけて、わたしの言葉は誰にも通じなくなっていき、それを解読できるのは、もはや文だけだと思っていた。(P124)と綴られていたのが印象深かった。

 それにしても、映画日誌に“やばいぞ”などという普段は使わない言葉で綴っていたことが、奇しくもマイペースすぎてやばい人という括弧付きの表記で被って来るとは思い掛けなかった。また、ミナミが南か美波か三波か判らなくてミナミとした部分が南だったことが判明してすっきりした。

 こういった作品の場合、原作と映画化作品のどちらが優れているかとか、原作の良さを映画化作品が充分に伝え得ているかといったことが話題になりがちだが、僕には映画化作品と原作は別物だという意識があって、その優劣を問うのはナンセンスだと思うが、内容・テーマに関してこれだけ差異を感じるところが少ないと、却って違いが際立ってくるように感じた。理解しやすいのは原作、味わい深いのは映画化作品、というのが僕の印象だ。どちらが優れているというようなものではないが、僕の好みは、表現的にメリハリの効いていた映画作品のほうだ。

 文字で表せる以上に伝わってくる空気感というか、生身の人間が演じて見せていればこそのものが、映画化作品にはあったように思う。脚本もさることながら、演技演出がよかったのだろう。最初の四頁の「きょとん」が最後に腑に落ちるということはあっても、原作小説は、判りやすい分、映画日誌に記したような開幕早々から、やばいぞやばいぞと心中穏やかならぬまま、ずっと観入ってしまった。そして、その“やばいぞ”のニュアンスがどんどん変転していくところがまた、凄いと思った。というような味はなかった気がする。もっとも、結末まで既に知ったうえでの後読みだからというところがないわけではないとも思う。

 ただ、原作小説を読む前に映友から、原作小説では警察に捕まって、この苦しみから解放されたいとの思いを文が予め持っていたと聞き及んで、彼が抱えていた諸々の端緒は、身体的なところからのものだったように受け止めた僕としては、彼が警察に捕まることで苦しみが解放されると何ゆえ感じたのか腑に落ちない気がしたので、原作中で彼がそのような抱え方をしていた苦しみとは何であり、どのように描かれていたのかが、興味深いところだった。この部分については、“誰にも言えない秘密として一人で抱え込み不安と孤独に苛まれる苦痛”のことだったわけだが、そういう形での“解放”を積極的に望んだのではなくて、捕まれば捕まったで、そういう“解放”が得られるかもしれないという捉え方だったので、得心できた。解放のほうに重きがあるのではなく、それすら解放と感じられるほどの苦しみだということだったように思う。

 映友たちにおいては、映画化作品を暗いと評する向きが少なからずいたなか、僕は、映画日誌に陽の光ではなくとも、そこには確かな月の輝きがあるに違いないとしたラストと記したように、まったく暗いとは思わず、二人が邂逅すべくして邂逅し得た、…救いの物語と受け止めていたから、そのラストにしても、映画日誌の最後に十五年前の事件後、経済的には恵まれた親の扶養の元、長らくの引き籠りを続けた文と、養育者の伯母の元には戻れずに養護施設で育ったのであろう更紗と記した部分にしても、原作小説がまさにそのまんまだったことに驚いたのだった。さすがに、更紗が住んでいることを知って文が敢えて住まいを構えた土地だったというのは、思い掛けなかったけれど。

by ヤマ

'22. 6.13. 東京創元社 単行本



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