『俺たちは天使じゃない』(We're No Angels)['89]
監督 ニール・ジョーダン

 いずみたくフォーリーズによる『おれ達は天使じゃない』(作:矢代静一)を'82年、フォーリーズによる『おれたちは天使じゃない』(作:藤田敏雄・矢代静一)を'89年にミュージカル劇として観ているけれど、映画の『俺たちは天使じゃない』は初めての観賞になる。

 遠い日に観た舞台劇では、もっとコミカルな改心物語として描かれていた気がするのだが、本作では、コメディ色よりもシリアスな意匠が施された“奇跡物語”だという気がした。ちょっとした偶然に対して「奇跡や!」という言葉を発する場面は、ある意味、人々の生活のなかで日常的なことだとは思うけれども、1935年を舞台にした本作を観て、改めて入信こそが、ある種の奇跡なんだなとの感慨が湧いた。

 字幕で「涙する聖母」と訳されていた“weeping virgin”像はそれ自体が“奇跡”の象徴のような代物だと思われるが、その聖像を掲げた祭が利いていたように思う。祭に紛れ込んでカナダへの逃亡を図った脱獄囚の一人ネッド【ライリー神父】(ロバート・デ・ニーロ)が目撃する聖女の涙が、たとえ教会の雨漏りによるものだとしても、信ずる者は救われるのだとすれば、奇跡の当たり籤によってジミー【ブラウン神父】(ショーン・ペン)が偶々祈祷書に挟んでいた熊警戒のチラシを元に説いた、奇跡的な説法において述べた「神はそこにいる」ということになるような気がする。

 また、信仰とは無縁のリアリストだったモリー(デミー・ムーア)が入信を決意してもおかしくはない劇的な見せ場が、なかなか目を惹いた。彼女の聾唖の娘をダム湖から引き揚げたものの抱きかかえたままダムの落水に押し流されていくネッドの姿と、ダムを落ちる聖母像の姿が重なり、ミケランジェロが『天地創造』に描いた「アダムの創造」を想起させるような、聖母像とネッドの伸ばした手の指の水中での接触が引き起こす奇跡の生還となっていた。

 ジミーが信仰の道に入っていく決意を固め、相棒ネッドと別れることにした顚末には、彼が信仰を始める前に自身で口にした言葉が「初めにありき」という形になっていて、とても印象深かったし、パレードの最中に聖母像の手から滴り落ちる血に聖職者たちが恐れおののく姿の背後に脱獄囚ボビー(ジェームズ・ルッソ)の手負いがあったのも、どこか暗示的だったような気がする。キリスト教における“奇跡とは何か”というわけだ。そのうえで、決して信仰を揶揄するような作りにはしていないところが好い。

 ミュージカル劇で観た同名作での脱獄囚の三人とは、本作はまるで違っていて、手元にある公開時のチラシでも三人組ではなく、専ら<新コンビ>が謳われていた。引き合いにされていたのは、『レインマン』のダスティン・ホフマン&トム・クルーズ、『ツインズ』のシュワルツェネッガー&ダニ・デビートだった。それならむしろ、当時のデ・ニーロの前作『ミッドナイト・ラン』のジャック&ジョナサンのほうが、本作でのライリー神父&ブラウン神父よりも適っているように感じたが、チャールズ・グローデンでは、チラシに謳えないのだろう。
by ヤマ

'22. 5. 5. BSプレミアム録画



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