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『吶喊』['75] 『赤頭巾ちゃん気をつけて』['70] | |||||
監督・脚本 岡本喜八 監督 森谷司郎 | |||||
先に観たのは『吶喊』。岡本喜八作品と僕の相性は、当たり外れの差があまりに大きくて、観てみるまでさっぱり予想がつかないのが妙味なのだが、開幕の坂本九扮する老婆の語りから早々によぎった嫌な予感のとおり、ちっとも響いて来なかった。 主役とも言うべきカラス組鉄砲隊長の百姓千太(伊藤敏孝)のキャラクター造形に、学生運動に嵌まり込んでいった若者たちのメンタリティを投影しているのかと思ったが、観賞後に手元にある当時のチラシを読むと、「この映画について」と題して監督・脚本の岡本喜八自ら「手っ取り早く言えば、時代物青春活劇ですが、別の言い方をすれば、百年前の『肉弾』だと思っています。」と書いていて些か驚いた。成程、だから映友との『肉弾』談義での「愛国教育にロケットパンチ」の高橋のオッさんが衝撃隊【カラス組】を率いた細谷十太夫(高橋悦史)を演じていたのかと得心したものの、そのような両作の僕との相性における落差の大きさに改めて驚いた。 映友によれば、同監督の『赤毛』にも通じる作品だそうだが、同作を僕は未見で宿題映画となった。ともあれ、俄か仕立ての兵士が武装すると、とんでもない勘違いというか頭がおかしくなって蛮行に及ぶというのは、アフリカの内戦時やボスニア紛争の際に仰天するような形で見せられたが、本作でも官軍兵士が錦の御旗のもとに行った殺戮の凄惨さは、カット数こそ少ないけれども『ソルジャー・ブルー』並みで驚いた。 本作が「映画人・岡田裕介を偲ぶ」という特集放映の三作のうちの一作に選ばれたのは、百姓千太とともに主役と言うべき薩摩藩出身の密偵稼業の万次郎を演じたのが岡田裕介であり、且つ彼の第一回プロデュース作品だったからのようだ。このとき放映された他の二作のうち『しなの川』['73]は、昨年五月に観ているが、昭和一桁とはいえ、子守歌が子捨て唄だなどという唖然とするような世界だった。「男を裏切る悪い癖、幸せを壊す悪い癖、女だから仕方がないよね」と零す母親(岩崎加根子)の血を受け継いだ雪繪(由美かおる)の何とも辛気臭い話で、雪繪の裸身のみが眩しい映画だった気がする。 今回初めて観た『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、遠い昔に原作小説を読んだとき、ペダンティックでトリッキーなスタイルが気に入らず、あまり響いて来なかった覚えがあるので、映画化作品を観て驚いた。あの頃感満載で、気恥ずかしく懐かしいような煩悶の日々を妙に生々しく思い起こした。もっとも僕は、本作の庄司薫(岡田裕介)のように女中のいるような家の育ちでもなければ、安田講堂事件で東大入試が中止になった1969年の高校三年生ではなく、七年遅れる1976年に大学受験をしているから、まったくの同時代ではない。 でも、水前寺清子の♪いっぽんどっこの唄♪も、ピンキーとキラーズの♪恋の季節♪も、いしだあゆみの♪ブルーライトヨコハマ♪も、同時代曲として耳に残っているし、佐良直美の唄う主題歌♪赤頭巾ちゃん気をつけて♪は耳馴染んではいないけれども、彼女の歌声には懐かしさが湧く。酒井和歌子の眼、内藤洋子の鼻、松原智恵子の唇と言われて頬を緩めることのできる世代であることに間違いない。 そして何よりも、知性が憧憬の対象であり、生の主題となり得る時代であったと同時に、それゆえに超克の標的にもなり得た時代であったことに強い同時代性を覚えた。そして、薫クンのふにゃキャラへの親和性が気恥ずかしいほどに湧いてきて、もしかすると嘗て原作小説を読んだときの反発は、近親憎悪のようなものだったのかもしれないとさえ思い、いつ読んだのか、書棚の文庫本を取り出してみると、昭和五十四年十一月十日の23版とあった。高校時分、新聞部と文芸部と生徒会活動を掛け持ちしていた僕が、七年遅れずに '70年安保の時代を迎えていたら、ゲバ棒を握ってデモ隊に加わるほうにコミットしたのか、薫クンのような煩悶を抱えたのかは何とも言えないところだが、付和雷同をよしとしない天邪鬼気質からは、ノンポリ薫クンをなぞったような気がして仕方がなかった。 小林(富川徹夫)の長口舌の独白に対して薫が言った「おまえは疲れているんだよ。」と、治療の後そのまま薫の膝の上で寝入ってしまった女医(森秋子)の洩らした「疲れているの、とても、」との対照が印象深い二つの場面が、とりわけ面白かった。東大入試中止によって小林の見舞われていた想念のめんどくささと、女医の振る舞いに薫が抱いた想念の独りよがりは両者ともに共通していて尚且つ、あの時期の青年の抱く我が身の厄介さとして、苦笑しつつ思い起こした。 そして何となく、先ごろ四十年ぶりに再見した『ガンジー』['82]の日誌にて言及した「啓示」は、本作で薫が求めていた「第四のコース」(中公文庫 P95)に繋がるものだったような気がした。 薫が「ゴマすり型」と呼ぶ第一のコース【つまり、優等生だ、秀才だ、エリートだという非難…に対して、オレはそうじゃない、オレはこんなに馬鹿です、間抜けです、欠点だらけです、愛すべき男ですとふれまわるようなやり口だ。つまり、他人に対して頭が切れそうに見えたりしないように万全の努力をし、やがてはどじょうすくいとか裸踊りを身につけ、高歌放吟を覚え、「人間的まるみが出てきた」とか「話せるやつ」とか言われるのを楽しみとし、「あいつはあえrでも昔は秀才だったんだ」なんて言われるのを最高の目的とするようなコースだ。ぼくは、新内閣ができた時の新聞の「新大臣紹介」なんかをすごく興味を持って読むのだけれど、どうも政治家になるにはこのコースをとることがほぼ絶対に有利なんじゃないかという気がする。「栄ちゃんと呼ばれたい」ってのはつまり本音だと思うわけだ。もちろん政治家だけじゃない。ビジネスエリートにしてもなんにしても、要するに多くの人たちとウマくやっていくためには、自分の欠点とかくだらなさを免罪符のようにアッピールしていくのが、おそらく一番楽で効果的な方法なのじゃないだろうか。(P93)】も、「居直り型」と呼ぶ第二のコース【つまり、みんなの非難に対し、そうさ、オレはどうせ秀才だ、エリートだ、それがどうしたってな具合に開き直ってしまうやり方だ。誰だってそうだと思うけれど、こうやっていったん居直ってしまえば、これは相当に強い。つまり、そうさどうせオレは右翼だ(左翼だ)、どうせオレは保守反動だ(ラディカルだ)、どうせオレは貧乏人だ、金持だ、田舎者だ、ノンポリだ、青二才だ、バカだ、チョンだ………。つまりなんだって開き直ればそれなりになんとかなるもので、特に実力のある秀才やエリートが居直った場合には、大体これに対する非難というものはもともとすこぶる感情的というか、漠然としたいや味みたいなものが強いのだから、実際問題としてなんとなく怖いような対外効果(?)を持つのじゃないだろうか。いつかマキャベルリの『君主論』で「愛されるか怖れられるか」という話を読んだけれど、これはぼくがいま言った二つのタイプのことかもしれない。(P93~P94)】も、「亡命型」と呼ぶ第三のコース【つまりやらなきゃならないことだけさっさとすまして、あとの能力を音楽や美術みたいな芸術鑑賞を始め、碁だとか釣りだとか骨董だとか庭いじりだとか女の子(?)だとかいった趣味に猛烈凝ることに使うタイプだ。もともと優秀な人がやるわけだから、この場合には専門家はだしというか相当なディレッタントが誕生するわけで、これはちょっとかなりカッコいい生き方になったりするけれど、うっかりすると馬鹿げたフェティシズムみたいな感じにもなる。(P94)】も気に入らないと言いながら、「ぼくはぼく自身がしょっちゅうこの三つのコースにフラフラ迷い込みそうになってはスレスレで頑張るみたいな生活をやっているようにも思う。…つまりぼくが、もしぼく自身を、そして前にも言ったような意味でのぼくの知性を、どこまでも自分だけで自由にしなやかに素直に育てていきたいと思うなら、ぼくは裸踊りでゴマすってはいけないし、居直るなんて論外だし、ましてや亡命するなんてのは絶対にいけないのではないか。ゴマをすらず居直らず逃げ出さず……でもそんなことを実際にどうやって続ければいいのだろう。それに実際問題としてそんなことができるのだろうか?そして何よりもぼくが自分をスレスレのところにいると感じるのは、たとえそんな綱渡りみたいな第四のコースを選ぶとしても、それにそももどんな意味があるのかと考えだす時なのだ。」(P94~P95)などと煩悶していた。 だが、第四のコースというものは“選ぶ”ものではないということだと思う。というか、第四のコースに限らず、そもそも生き方というのは己が意志と制御によって選び得るほど単純ではないということだという気がする。 僕を知る人のなかには、僕が第三のコースを選んだように観る人もいるのかもしれないけれど、僕は庄司薫が言うような意志を以て自分から逃げ出したことはなく、結果的に逃れられたようなところがあるだけだと思っている。『ガンジー』の映画日誌に記した「行き掛りのなかで自分の信じる是を頑固なまでに発現させて、後は成り行きに任せるだけ」という処し方をしてきた結果であって、己が意志と制御によって選んだものではないように感じている。 | |||||
by ヤマ '22. 3. 7. 日本映画専門チャンネル蔵出し名画座録画 '22. 3. 8. 日本映画専門チャンネル蔵出し名画座録画 【日本映画レトロスペクティヴ再放映】 | |||||
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