ライヴ演奏付き無声映画
“合田佐和子が描いた銀幕のスターたち”
 https://moak.jp/event/performing_arts/autumnscreening2022_silentfilm.html
第一夜
『スージーの真心』[1919]
 (True Heart Susie)
監督 D・W・グリフィス
『ノアの箱舟』[1928]
 (Noah's Ark)
監督 マイケル・カーティス
第二夜
『寵姫ズムルン』[1920]
 (Sumurun(別名One Arabian Night))
監督 エルンスト・ルビッチ
『散り行く花』[1919]
 (Broken Blossoms)
監督 D・W・グリフィス

 かのカサブランカ['42]を撮った監督に、こんな大傑作があったのかと驚いた。『カサブランカ』がメロドラマの粋を極めつつレジスタンスの心意気を謳い上げていたように、『ノアの箱舟』は、バリバリのスペクタクル映画のなかに戦争への戒めを説いていて唸らされた。第二次世界大戦を経た歴史を知っている現代人には自明の理であるが、第一次世界大戦の戦後十年を迎え、世界恐慌を前にした経済膨張期に本作を残しているのは、実に大したものだ。

 打ち砕ける波のショットで始まった『ノアの箱舟』をてっきり創世記の物語だろうと思って観ていたら、20世紀と創世記の交錯する真にスケール感のある、制作当時の時代を撃つなかなか志ある作品だったことに感心したのだ。また、20世紀のマリーと創世記のミリアムを演じたドロレス・コステロがとても美しくて魅せられた。

 百年近く前の映画にもかかわらず、創世記の後、人間の思い上がりの象徴たるバベルの塔が映し出されたときに、遠景に見える塔の螺旋道を小さく人が連なって登っている動きが見えることに感嘆し、黄金崇拝の神事のようなものが描かれた後、いきなり20世紀に跳んで意表を突かれた。株式市況と賭博の狂乱の後に訪れた1914年の第一次世界大戦を開戦時から追い始め、夜行列車の走る車中で戦争はチャンスだぞとケチな儲け話を始める男や神などいない、いるのは女神だけだの後に軍事力こそが唯一の神だなどと嘯く輩が登場したかと思うと、神の怒りに触れたかの如く橋が落ち、列車が墜落する大惨事が百年近く前の映画とは思えない迫力で描かれ、圧倒された。

 この大惨事のなかで、本作の主役とも言うべき、アメリカ人青年トラヴィス(ジョージ・オブライエン)と美貌のドイツ人女性マリー(ドロレス・コステロ)が出会い、トラヴィスの親友アル(グイン・ウィリアムズ)とも知り合うわけだが、敵国スパイだと難癖をつけてマリーを狙うロシア諜報機関のニコロフ(ノア・ビアリー)の追っ手を逃れつつ、戦禍に翻弄される彼ら三人が、今度は創世記におけるノアの息子ヤフェス(ジョージ・オブライエン)とハム(グイン・ウィリアムズ)、ヤフェスの妻となるミリアム(ドロレス・コステロ)となり、ニコロフがミリアムを邪神の生贄にしようと企むネフィリム王(ノア・ビアリー)として登場して、洪水と戦争が人類を存亡の危機に晒すものとして並置されていた。

 ノアが観た洪水後に掛った虹の契約は、第一次大戦後には現れなかった代わりに平和の契約が結ばれ、戦争が地上から追放されたというようなことが示されていたのは、国際連盟のことを指しているのだろう。だが、制作時の1928年に敢えて十年前の世界大戦を取り上げ、戦火に燃える地図を映し出しつつノアの箱舟を引いていたのは、世界恐慌前夜の危うい社会状況に見舞われているなか、先の大戦の愚を再び犯さぬよう警鐘を鳴らす意味合いが強かったからなのだろう。ネフィリム王とニコロフが掌の同じ場所に同じような怪我の跡を負うのも、その二つを重ねようとする意図が作り手に明らかだからという気がする。

 列車墜落の大惨事以上の大スペクタクルで洪水シーンを描き、戦争による血の洪水を戒めとして説いていたのは、映画では一千万人と言っていた先の大戦による一千万人以上の犠牲者の命を無駄にするなとのメッセージだったように思う。迫りくる軍靴の音が作り手には聞こえていたのだろう。

 坂田 明 (サックス、クラリネット、ヴォイス 他)、勝井祐二(エレクトリック・ヴァイオリン、アコースティック・ヴァイオリン)、山本達久(ドラム)による演奏が、わずか三人とは思えないスケール感を演出し、画面の持つ緩急強弱のリズムを損なうことなく効果を上げていてなかなか好かった。

 先に観た『スージーの真心』が、真心スージーと言うよりは愚直なスージーに映り、猫背が少々気になったベッティーナ(クラリーヌ・シーモア)の叔母が言っていたくだらない田舎牧師そのままのウィリアム・“バター”・ジェンキンス(ロバート・ハロン)の御粗末な物語という印象だったのは、まるで映画お構いなしの、映画には映画の醸し出す感情があるのにノイズィで主張の過ぎる演奏が邪魔くさく、鬱陶しかったせいだろうという気がした。

 伴奏を独りで担った武田理沙(ピアノ、キーボード、エレクトロニクス)は、舞台の端から端まで移動してパーカッションも担いつつ奮闘していたが、画面とまるでチグハグで、ライブ演奏付き無声映画ではなく、無声映画付きライブ演奏になっていたために、情感情緒がものをいうメロドラマにおいて、幹に刻んだイニシャルを繰り返し映し出し、後悔ほど悲しいものはないとクレジットされても、感興などが湧く余地を奪い取るような音楽によって削がれたものが余りに大きいように感じた。


 第二夜の『寵姫ズムルン』は、中東の妖しげな旅芸人の馬車旅とハーレムから始まる、異国情緒の立ち込めるエキゾチックな六幕のパントマイムを映画にしたもののようだが、各幕で編成を替え、第一幕:ピアノ&サックス、第二幕:ヴァイオリン&ドラムス、第三幕:ピアノ&ヴァイオリン、第四幕:サックス&ドラムス、第五幕:ピアノ&ドラムス、第六幕:サックス&ヴァイオリンと変転していた(と思う)趣向の面白さはあったけれども、お話と人物関係がごちゃごちゃしていて分かりにくく、また、いわゆるルビッチ的洗練とはむしろ対照的な“猥雑さ”がしっくりきていない感じで、観ていてあまり響いて来なかった。第四幕だったと思うけれども、若者が美女の脚にアンクレットを嵌め込んで口づけた後、抱き合う場面の官能的な魅力に惹かれたくらいだったような気がする。

 続いて観た『散り行く花』は三十三年ぶりの再見だが、前回『東への道』[1920]と合わせて観たときに随分と見劣りがするように感じたものが、今回は思いのほか面白かった。『寵姫ズムルン』が中東エキゾチシズムなら、こちらは極東エキゾチシズムを湛えた作品で、中国の港町から始まる。呼応するかのように音楽も波の寄せる音や銅鑼のような響きが奏でられていた。

 野蛮な西洋人に“仏の教え”を伝えて感化するためにロンドン移住を果たした青年(リチャード・バーセルメス)が心折れ、阿片窟に入り浸りながらも、薄幸の美少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)と出会って、共に生まれ変わったような生きる喜びに目覚めた挙句に挫折してしまう悲劇だ。西洋的野蛮の象徴として現れるボクサーのバロウズ(ドナルド・クリスプ)の粗暴粗野が何とも気分が悪くて、三十三年前にはげんなりした覚えがある。

 だが、現代から観れば、DV映画の嚆矢としても画期的な作品だったように思うし、何より、東洋人青年がバロウズの娘ルーシーと迷い猫を拾うようにして巡り会い、“ホワイト・ブロッサム”と命名して互いに活き活きし始める場面が心沁みてきた。ヴァイオリンとサックスをフィーチャーさせた掛け合いのなかでの♪夏の思い出♪の一節を覗かせるような趣向も凝らしたカルテットによる演奏が、僕にとって奏功していたのかもしれない。

 同様に、娘が中国人の元に逃げ込んだことに怒り狂ったバロウズが娘を追い詰める場面の怖さにもなかなかのものがあったが、これにも演奏付き上映が、前回観たときとは異なる大きな効果を及ぼしていた気がする。また、バロウズが娘を死なせてしまうほどに怒り狂うことへの理解が、当時は今ほど及んでいなかったのかもしれない。子供が自分の意のままにならないことに対して、幼弱者から自分が馬鹿にされたと感じるメンタリティというものが、これほどそこいらに溢れかえっているとは、かつては知らなかった。本作が名作とされることに合点がいかなかった当時の印象を払拭できてよかった。


公式サイト高知県立美術館


by ヤマ

'22.11.17,18. 美術館ホール



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