| |||||
『王子と踊子』(The Prince And The Showgirl)['57] 『荒馬と女』(The Misfits)['61] | |||||
監督 ローレンス・オリヴィエ 監督 ジョン・ヒューストン | |||||
十年近く前に『マリリン 7日間の恋』の見どころ解説を地元紙に掲載した際に「思わず『王子と踊子』を観てマリリン・モンローとスクリーンで再会したくなる」と記してあった作品をようやくにして観た。英語もドイツ語も達者なショーガールのエルシー・マリーナことエルシー・ストルゼンバーグを演じたマリリンの魅力がまさに炸裂しているような映画だった。 長年にわたる「我が“女優銘撰”」の筆頭に挙げている『バス停留所』の翌年の作品だから、僕の好みから行くと、三十路に入ったばかりの最盛期のマリリン・モンローだ。ボディコンシャスな真っ白いイヴニングがはち切れんばかりの肉感と、宝石で身を包み着飾った彼女のキラキラしている表情に、すっかり魅入られていた。 もうお話は、ほとんどどうでもいいような按配なのだが、頭の回転がよく、なかなか強かで且つ巧みな言葉の駆け引きによってカルパチア王国の助平大公(ローレンス・オリヴィエ)を翻弄しつつ、ピュアな慎ましさをも漂わせているという浮世離れした女性像を巧みに演じていたように思う。 国王家ならではの父子間の齟齬を解してやろうとするエルシーの心根の麗しさのなかに、彼女には親も子もいないことが透けて見える気がしたのだが、そこには、演じたのがマリリンなればとの作用があったかもしれない。それはともかく、その胸元に手を挿し込んで大きなブローチをピン止めする場面が三度も与えられていたローレンス・オリヴィエに対し、彼が演出を担う監督をも務めていたことによる特権を感じないではいられなかった。 翌日観た『荒馬と女』は、わずか四年後の映画ながら、マリリン・モンローの遺作となった作品だ。モノクロ作品だとは思いがけず、大いに驚くとともに、老カウボーイのゲイ(クラーク・ゲーブル)がロズリン(マリリン・モンロー)に言う“輝くばかりの美しさ”が他の作品のマリリン以上に際立っていた一方で、かつての可憐さがなくなっていたのは歳相応だとしても、天性にも思えた明るさがすっかり影を潜めていることが、ゲイの台詞にあった「世界一悲しそうだぜ」といった役柄によるものだとばかりは言えない感じがして、妙に痛ましかった。ロズリンがダンスをしながらギド(イーライ・ウォラック)に囁く「皆、“死”に向って生きているわ」という台詞も遺作と知って観ると、ひときわ印象深い。 作中でもギドから「不思議な女だ」と言われ、終いには「正気じゃない」とまで言われていたロズリンの人物像は、『王子と踊子』のエルシーとは全く異なる意味合いで浮世離れしていたような気がする。加えて、若いロデオ乗りのパース(モンゴメリー・クリフト)を含めた三人の男たちとの顛末のいちいちが、いかにも取って付けたような運びに感じられて、どうも腑に落ちて来ない物語だった。 アーサー・ミラーが自分たちの私生活におけるマリリンの“不適合”を矢鱈と折り込んでいるようにも思われ、場面の繋がりに飛躍の激しい、些か出来損ないの脚本をジョン・ヒューストンが四苦八苦しながら映画にしている気がしてならなかったのだ。 そもそも三人の男たちという設えは、どこから来たものなのだろう。車から始まり、飛行機、馬と乗り物も三種類登場させていたこととの符合が妙に思わせぶりだった。酒場で献金をせびる婦人のくどさやマリリンの揺れる胸を見せるための球打ちの賭けなどにも取って付けた感じが否めず苦笑した。ウサギや馬に対するロズリンの並外れた動物愛護心というのはマリリン自身のものだったのではないかという思いや、やおら酩酊したまま庭で踊り出したり、水着姿で胸を揺らせながら走り寄る姿にはロズリンを描いているというよりも、当時のマリリンを映し出している感のほうが強かった気がする。それにしても、やおら星空を登場させて強引に締め括るラストには唖然とさせられた。 | |||||
by ヤマ '22.10.15. DVD観賞 '22.10.16. DVD観賞 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|