『バーバレラ』(Barbarella)['67]
『黄昏』(On Golden Pond)['81]
監督 ロジェ・ヴァディム
監督 マーク・ライデル

 定例合評会の今回の御題は、主宰者ご贔屓のジェーン・フォンダの二本。先に観たのは、彼女が二十代最後の年に製作された『バーバレラ』だ。小中学生の時分にテレビ視聴して悩殺された覚えのある作品の半世紀余り経ての再見となる。

 なぜスーラ?と思いながら観始めたオープニングのタイトルバックでの“えらく長くて綺麗な指”そして“御御足というに相応しい長い脚”から全裸に至るバーバレラ(ジェーン・フォンダ)のストリップティーズに観惚れ、興奮剤を服用し手を合わせて交わすのが上流セックスになっている時代という設定に、あぁ、確かにそうだったと頬を緩ませながら愉しんだ。

 いま観ると却ってレトロ的付加価値を得ているように感じられる些か安っぽい特撮映像に懐かしさを覚えるとともに、当時でさえもハイセンスと言うよりはチープでキッチュな線を狙っていたと思われる映像のなかで活き活きとしているジェーンの美しさに感心。ボディコンシャスな衣装をとっかえひっかえ着ては脱ぎしていくジェーンが見せるさまざまな表情こそがイチバンの見せ所の映画だったんだなと改めて思った。

 なかでもやはりデュラン・デュラン(ミロ・オーシャ)が快楽オルガンで奏でる死刑執行人と若い女たちのためのソナタによって目まぐるしく変える表情が面白く且つ美しく、マーク・ハンド(ウーゴ・トニャッツィ)の望みに応えて地球では貧しい人しかしないという古いスタイルの生身のセックスに満たされ余韻に浸っている表情、革命軍リーダーのディルダノ(デヴィッド・ヘミングス)が何故か持っていた興奮伝導剤を使って彼と行っていた“地球式セックス”の可笑しさを印象深く感じた。

 当時は、最も現実離れしたギャグ以外の何物でもなかったと思われることが、半世紀を経て“レス問題”が顕著になっている当節を先取りして揶揄していた感じを図らずも醸し出していて、より目を惹いたように思う。また、用語的には「革命」も「磁気嵐」も最近は見聞きしなくなった言葉だが、あの頃作品では、流行り言葉のようによく出くわしていたような気がする。半世紀以上前の作品を観賞する妙味を堪能できる映画だと思った。そして、ジェーンが最初のアカデミー主演女優賞を受賞した未見の宿題映画『コールガール』['71]を観てみたい思いが募った。


 翌日に観た『黄昏』は、四十路半ばの彼女が企画し、父ヘンリーに念願のアカデミー主演男優賞を受賞させたとされる作品で、四十年ぶりの再見となった。公開当時は『ベストフレンズ』(ジョージ・キューカー監督)との二本立てで、両作とも上々の作品だった記憶がある。公開時にも思ったような覚えがあるが、アメリカにも鴛鴦夫婦という言葉はあるのだろうか。原題さながらの黄金色に輝く湖のショットから始まる、味わい深く美しい映画だった。

 ジェーン・フォンダは、ちょうど僕よりニ十歳年上になるから、彼女がチェルシー・セイヤーを演じた本作を観たときに、僕は二十代半ばだったわけだが、今や七十歳前というエセル(キャサリン・ヘップバーン)のほうに近い歳になった。

 それもあってか、元ペンシルベニア大学教授のノーマン(ヘンリー・フォンダ)のいかにもインテリっぽい年老いての毒舌というのは、実に見苦しいものだと痛感した。それとは対照的に、賢夫人エセルの矍鑠たる包容力に、老後の女性優位を改めて感じた。そのようななかにあって、娘と夫の関係のままならなさに自責と悔恨を滲ませつつ、子供時分に傷ついたことへの拘りに囚われているチェルシーに、人生は止まらない、乗り遅れないでと諭しながら自分にも言い聞かせている姿をキャサリン・ヘップバーンが実にニュアンス豊かに演じていて、感銘を受けた。そして、セイヤー夫妻が醸し出していた夫婦関係の滋味は、チェルシーの再婚相手の四十五歳の歯科医ビル・レイ(ダブニー・コールマン)が言っていたような高め合える関係などという代物によって築けるものではないことが沁みてきた。

 それにしても、老年にとっての二世代下の子供との親密な関係の掛け替えのなさは、血縁の孫に限らず、本当に何物にも代えがたいことが身につまされ、とても響いてくるとともに、ビルの連れ子である十三歳のビリー(ダグ・マッケオン)と父親が打ち解けていることを妬ましく観ていたチェルシーが、何とも哀れだった。ノーマンの時代の男親なら致し方のない面もあるものの、つくづく彼は息子が欲しかったのだなと思うと同時に、父親に認められたくてどんなに頑張ったところで息子にはなれないチェルシーが、四十路半ばにあっても鍛え上げて見事に引き締まった身体で、ビリーに倣って湖畔の桟橋からバック転ダイヴィングに挑む姿が印象深かった。三十路半ばで既に爛熟の極みだった荒馬と女のマリリン・モンローと実に対照的だ。

 本作には、女性遍歴を重ねた父ヘンリーとの確執をほぐしたいジェーンの想いが投影されていたらしい。四十路半ばに至って彼女がそう思うようになったことには、彼女自身が離婚と再婚を繰り返した人生遍歴が作用している気がしてならなかった。その意味では、本作を遺作とし、翌年に逝去したヘンリーにとっては、とりわけ掛け替えのない作品になったことだろうと思わずにいられない。ロジェ・ヴァディムによる、かなりナルシスティックな女房自慢の映画のようにも映る『バーバレラ』同様に、ジェーン・フォンダの実生活での家庭の事情が色濃く投影された私映画のような作品という点で、ある意味、相通じるところのあるカップリングだったように思う。




【追記】'24. 3.27.
 観てみたい思いが募ったと記した『コールガール(Klute)』['71](監督 アラン・J・パクラ)は、半年ほどしてDVD観賞する機会を得たが、なんともまどろっこしくて、さっぱりだった。ブリー(ジェーン・フォンダ)の人物造形が妙に観念的で、息づきに乏しく、雇われ探偵クルート(ドナルド・サザーランド)の仕事に肩入れしていく過程がまるで釈然とせず、フランク(ロイ・シャイダー)との距離感も腑に落ちてこなかった。
 ピーター(チャールズ・シオッフィ)が探偵を雇ってまで何故に墓穴を掘りに行くのか訳が分からないし、娼婦のほうに覚えのない客が娼婦の住所を知っていたり、斡旋者ではなく娼婦のほうが顧客の住所録を持っていたりすることが解せない。えらく御粗末な話だという気がしてならなかった。緊迫感も欠いていたように思う。
 こんな作品でジェーンは、アカデミー賞をはじめとする名だたるアワードの主演女優賞を手中にしていたのかと唖然とした。同時期の作品なら『バーバレラ』やひとりぼっちの青春のジェーンのほうが余程いいと思った。

 そして今また『バーバレラ』つながりで同じくロジェ・ヴァディム監督による『獲物の分け前(La Curée)』['66]をBD観賞する機会を得たわけだが、『バーバレラ』と違ってユーモアも機知も感じられず、風刺とも言えないような下衆話で、さっぱりだった。
 タイトルの獲物の分け前というのは、若妻ルネ(ジェーン・フォンダ)の資産を狙った夫アレクサンドル(ミッシェル・ピコリ)が、前妻との間の息子マキシム(ピーター・マッケナリー)に分け与えた美しき妻の肉体ということになるのだろう。なかなか下品な話だ。
 やおら寝所を別にして干した妻が浮気に走った燕と思しきアルマンを持て余すようになり、息子に靡いていくのを察知して複雑な思いに駆られながらも好都合とばかりに、ダシに使ったアレクサンドルの下衆っぷりに比して、ルネもマキシムも些かぼんやりキャラクターぶりの度が過ぎていたような気がする。緑に揺らめくジェーン・フォンダの文字で始まり、揺れ蠢く緑の衣装が奇抜な仮装パーティの場面で終える映画を観ながら、確かにぼんやり揺れるグラグラ作品ではあったと妙な納得をしたりした。
 フロント開きの奇抜な車に乗る中国人のみならず、随所に現れる奇抜さが風刺にもユーモアにもなっていないように感じられるところが苦しい気がする。なかでもミミ・ヴァン・スプートニクとの名の娼婦を演じる以上の蔑ろに晒されるルネの人物像の不得要領ぶりには唖然とした。エミール・ゾラによる原作を潤色した作品のようだが、女性の愚を描いて戒めている感があり、妙に古臭く感じた。マキシムが道が消えちゃったという間の抜けた台詞を発する、池での車の水没場面以降、どんどん話がへんてこりんになっていった気がしている。




『バーバレラ』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/1322509041182009/
by ヤマ

'22.10.13. DVD観賞
'22.10.14. DVD観賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>