『ひとりぼっちの青春』(They Shoot Horses, Don't They?)['69]
監督 シドニー・ポラック

 高校時分の映画部長から黒い牡牛と併せて提起された課題映画は、オープニングに両前足とも跪く“黒い馬”が登場する作品で、観終えて成程と思わされる巧みなカップリングだった。

 フーヴァー大統領の名が出ていたから恐慌時代ということになるわけだが、たとえ賞金が得られなくても、1日7食ありつけるからと不況下の生活困窮者が男女のペアを組んで参加していたダンス・マラソン・コンテストは、『黒い牡牛』で取り上げられていた闘牛などよりも、遥かに陰惨な見世物だった。受付にて待ち並ばされるなか「牛も俺たちも変わらない」という参加者の台詞があったが、「でも 牛は(己が末路を)知らないわ 私達よりましよ」と返していた映画の端役女優グロリア(ジェーン・フォンダ)の言葉が皮肉な形で利いてくるなかなか強烈な作品だった。主催者兼進行役のロッキー(ギグ・ヤング)が映画の中盤で言い放っていた「客が観たいのは他人の惨めな姿だ」が核心を突いていたように思う。

 観逃がせないのは、かような競技会を装った見世物に集う人々が決して富裕層でもなさそうなことだった。なにせ会場の設えが実に安っぽいし、見世物自体に闘牛ほどの洗練が欠片もない。格差社会が拡がって世の中が荒んでくると、より惨めな存在を目前に確かめることが自身の慰めとして必要になる層というものが、興行を成立させ得るほどに増えるというわけだ。役の得られない出稼ぎ女優アリス(スザンナ・ヨーク)のなけなしの華あるドレスと化粧品をロッキーが盗み取って処分するのも、興行の狙い目がそこにあるからなのだろう。

 それにしても、600時間を超えるごとに設けられていた、参加者をよりふるいにかけるために体力を消耗させつつ、その「より惨めな姿」を観客に晒すアトラクションとしての、“ダービー”と呼ばれた、狭い会場での10分間の競歩レースの趣味の悪さは、圧巻だった。

 1200時間と言えば、50日を超えるわけだが、これほど愚劣で陰惨な見世物興行が当時のアメリカでは実際に行われていたようだから、唖然とする。端役しかもらえず「いい役は回ってこない」と零しつつ已む無く参加したと思しきグロリアが持ち前の負けず嫌いから過酷な賞金レースに食らいつきながらも、優勝したところで、さして巨額とも言えなさそうな賞金1500ドルから経費としてほとんどの額が賞金獲得者からは差し引かれる仕組みになっていると知らされて、ほとほと世の中の仕組みが嫌になり、「世の中どこでも同じなのよ、いい役は決まってるの」とロバート(マイケル・サラザン)に告げ、人生というメリーゴーランドを降りる手助けをしてもらっていた。牛同様に、何も知らなかったということだ。

 百年近くの時を隔てて、今また、そういう社会状況が訪れてきている気がして、何とも陰鬱な気分に見舞われた。「頼まれただけの理由で殺したのか」と問われ、「廃馬は殺される」と応えていたロバートの胸中にあったであろう虚無を思うと、近ごろ報道でもよく接するようになった気のする自殺幇助事件が想起され、いささか気が滅入った。オープニングを除き、ずっとダンスマラソン会場の閉所や暗がりしか登場しなかった作中において、グロリアが銃弾に倒れる場面だけ、開けた野外の空の見える“自由な空間”に束の間切り替わっていたのが印象的だった。

 グロリアを演じたときのジェーンと同じ年頃に僕が観たとすれば、'90年頃になるわけだが、それよりも、今観るほうが得るものが多かったような気がする。当時観る六十年前の恐慌時代を描いた映画というのと今とでは、かなり響いて来方が違うように感じた。巧みなカップリングで見せてもらったことも幸運だったし、観た順番もよかったように思う。

 また、過酷な持久・耐久勝負に精神が苛まれていく者が続出していたなか、遥々ロンドンから渡米しながら失意のままに、自身が全財産とも言っていたドレスと化粧品を奪われるばかりか、遂には正気を失ってリタイアに追い込まれていたアリスを演じたスザンナ・ヨークの熱演が印象に残った。原作もいずれ読んでみたいものだ。
by ヤマ

'21. 3.20. DVD観賞



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