『鬼が来た!』(鬼子來了【Devils On The Doorstep】)['00]
監督・脚本 姜文(チアン・ウェン)

 二十年前に当地でも公開日から半年遅れでオフシアター上映されながらも、一日限りの上映で折り合わず観逃していた宿題映画を観る機会を得た。日中戦争末期の中国の寒村に押し付けられた日本兵の花屋小三郎を演じた香川照之がチラシの裏面に「今一番の注目株」として記されている時分の作品だ。紅いコーリャンで強い印象を残していた姜文が監督・脚本・主演のみならず製作まで担っているだけあって、実に強い作家性を押し出している映画だった。

 軍歌を掻き鳴らす器楽演奏の大音量と人々が走り回り、大声で喚いたり叫んだりしている喧騒に包まれている混沌とした有様のなかで、親切と暴虐が混在し、善悪も正邪も問いようのない理不尽な混迷に見舞われて人々が右往左往するさまが、数々の珍妙と皮肉を折り込んで滑稽味を覗かせて描かれていたように思う。その混迷こそが戦時の核心ということなのだろう。村人ばかりか侵略者たる日本軍の側も同様の有様として描いている点に大いに感心した。

 マー・ターサン(チアン・ウェン)がユィアル(チアン・ホンポー)との交接に勤しんでいる一番好い時に、麻袋に詰められた実に扱いに困る花屋小三郎を押し付けていった「私」と称する者の正体が最後まで不明のままだった点が重要だと思った。この闖入者のおかげで村はとんでもない事態を迎えることになるのだが、誰が何のために村人に小三郎を押し付けていったのか判らないままになるのと、まさに同じような形で戦争という厄介者は、人々の生活に闖入してくるというわけだ。

 日本兵ゆえに彼を丁重に扱うほうがいいのか、「私」が命じていった尋問を行い調書を作成すべきか、厄介な小三郎の存在を否定し始末して無事でいられるのか、マーのみならず村の長老も対処の仕方を判じかねるままに持て余しつつ、成り行き任せになっていく。その過程の混乱と動揺の描出がとても暗示的で、人の営みの愚行のほどを炙り出しているような気がした。なかでも通訳のトン(ユエン・ティン)が喚き散らす小三郎の暴言を正反対の意味合いで訳していたり、小三郎が悪口のつもりで習得している中国語が新年の挨拶だったりしているディスコミュニケーションとコミュニケーションの可笑しさが印象深く、ズレたコミュニケーションが生み出す効用と混迷の描出に感心した。

 それにしても、既に終戦を知っていたと思しき酒塚隊長(澤田謙也)は、小三郎が村人と交わした約定にかこつけて如何なる意図で村に食料を運び込み、宴を催したのだろう。想外の親和性を高めていた宴が忽ちカタストルフに転じていく契機の描出がなかなか見事だった。酔った村人が酒塚隊長にあれほどの無礼講的態度で臨まなければ、隊長の逆鱗を忖度したと思しき小三郎の暴発もなかったのではないかという描き方がされていたうえに、小三郎の暴走という契機がなければ、酒塚のその後はなかったようにも感じられる描き方になっていた点に唸らされた。そのような酒塚を澤田謙也が非常によく演じていたように思う。中国映画における日本兵による村民虐殺場面でのこの描出というのは、当時においてさえも大変なことだったのではなかろうか。

 また、始まり方のよく判らない戦争を終結させることの難しさを思うなか、日本映画で天皇の玉音放送が一つの定式として大きな意味を持って描かれるのは、ある意味、当然だと思うけれども、中国映画の本作で、かほどに玉音放送が象徴的に使われ、描かれるとは思い掛けなかった。かなり鮮烈だった。凄い映画だと思うし、現在の日中関係とはまるで違っていた時分の日中関係の記憶が残っている僕には、隔世の感が湧いてきた。

 そのような本作にあって、戦争が終結し、日本兵が収容所に囚われるに至ってもずっとモノクロのままだった映画世界がようやく色づくのは、個々人のなかでは“終戦では終わらない戦争”に己が命の途切れでもって仕舞いを付けたマーの首が刎ねられ転がるなかでのことだった。そして、首だけになってようやく笑顔を取り戻していたマーの姿が実に強烈だった。
by ヤマ

'22. 8.29. あいあいビル2F



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>