『星のない男』(Man Without A Star)['55]
『ガンファイターの最後』(Death of a Gunfighter)['69]
監督 キング・ヴィダー
監督 アラン・スミシー

 先ごろ観たばかりの帰らざる河['54]は、とにかくもうマリリン・モンローを見せるための映画だったが、その翌年の作品になる『星のない男』は、もう兎にも角にもカーク・ダグラスを見せるための映画だった気がする。バンジョーを搔き鳴らして弾き語るし、軽業めいたガン・アクションを鮮やかに見せてもくれる。お茶目な風情を漂わせたり、強面の気迫を見せたりとなかなかに忙しい。鉄線の傷跡が無惨に残る胸板を見せるのは、作り手がその厚さを見せたかったからのようでもあった。

 初見のような気がしながら観ていたのだが、その傷跡の残る胸板を見せる場面に観覚えがあり、また女牧場主リード(ジーン・クレイン)の入浴場面に遭遇して目を白黒させるデンプシー(カーク・ダグラス)と平然としているリードの対比というのも観たことがあるような気がして、もやもやしていたのだが、高校同窓の映画部長から「月曜ロードショー」で放映していたと聞き、それなら観ている可能性が高そうだという気になった。

 いろいろなカーク・ダグラスを見せてくれるのはいいのだが、そのことに引っ張られたせいか、肝心の人物像が今一つぼんやりとしてしまい、見せ場はあれど、キャラクターとしての魅力を醸し出すには至っていなかった気がする。

 永の付き合いを感じさせる酒場女のアイドニー(クレア・トレバー)にしても、東部暮らしのまま投資稼業に西部を利用するだけの地主が多いなか、西部での単身暮らしを厭わずに訪れたリードにしても、デンプシー・レイが亡き弟代わりに可愛がっていたジェフ(ウィリアム・キャンベル)にしても、そこそこ魅力的ではありながら、妙に人物造形がぼんやりとしていて、その意思が見えてこないきらいがあったように思う。

 タイトルの「星のない男」というのは、原題そのままの直訳のようだが、日本語に言う「どういう星の元に生まれたのか」の“星”と同義としたものなのだろうか。英語の「Star」にそのようなニュアンスがあるとは思いがけず、お話的にも妙にすっきりとしないものが残った。


 十日ほどして観た『ガンファイターの最後』['69]は、これが、かのアラン・スミシー・フィルムの魁となった作品かと興味深く観た。列車と棺桶と♪スウィート・アップル・ワイン(甘い林檎酒)♪で始まった、少々風変わりな映画で、お話と展開に釈然としないものが残った。

 リチャード・ウィドマークの演じたベテラン保安官フランク・パッチの人物像が妙に掴み難く、彼と町の有力者たちとの関係が今一つピンとこなかったが、星のない男という点では、デンプシーよりも本作のフランクのほうが遥かに星のない男だったような気がした。それにしても、なぜ銃撃戦をも厭わない争いにまでなってしまったのか、反芻してみたが、今以て腑に落ちないままだ。

 鉄道の駅ができ、東部からの開発資本が流入してくる新時代を迎えつつある町の有力者たちが、過去の弱みを握られていることと昔気質というだけで、二十年も町の保安官を託してきたフランクを目の敵にして排除しようとする有様は何とも解せない。ただ『星のない男』でのアイドニーとは違って、フランクと永の付き合いを感じさせていた娼館マダムのクレア・クィンタナ(レナ・ホーン)の意思は明快で、町を見限って出ていく最後の場面が決まっていたように思う。
by ヤマ

'22. 6. 9. BSプレミアム録画
'22. 6.18. BSプレミアム録画



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