『ピアノ・レッスン』(The Piano)['93]
監督・脚本 ジェーン・カンピオン

 公開時以来の二十八年ぶりの再見だが、“意志と感受性と抑圧の作家”だと改めて思った。三十年前に初めて観た監督作エンジェル・アット・マイ・テーブル』['90]が鮮烈で、以後、観る機会が得られれば逃さず観るよう努めてきたが、当地でも上映されながら日時が折り合わず観逃している『ブライト・スター』['09]と当地では上映されなかった『ホーリー・スモーク』['99]が宿題になったままだ。

 六歳のときに自らの意思で声を出すことを止め、声に代えてピアノの調べを奏でてきたというエイダ(ホリー・ハンター)にとって、ピアノは最早、生身の肉体よりも、自らの魂を収めた自身そのものだったわけで、そのピアノを蔑ろにした夫スチュワート(サム・ニール)よりも、彼女にとって自身そのものとも言うべきピアノに目を留めたベインズ(ハーベイ・カイテル)のほうに惹かれるようになるのは、道理とも言うべき展開だ。

 しかもベインズは、1852年と言えば、日本ではまだ江戸時代に当たる、こんな島のどこにいたんだと思わずにいられない調律師の手配や自分が弾こうとするよりも専らエイダに弾かせようとする“慎重な丁寧さ”と、ピアノの返却を約する鍵盤のキーの数を代償に、スカートを持ち上げて下着を見せることから始めて、裸になること、添い寝すること、交わることといった身体コミュニ―ケーションを要求していく“大胆な率直さ”でもって、ある種、コミュニケーション障害に閉じ込められていたエイダの心を開放に導いていく。作中でも使われていた“レッスン”という言葉は、ピアノのレッスンではなく、ピアノを通じた心的開放のレッスンであることが活写されていた。

 恋愛といった情動による開放ではなく、レッスン的共同作業の積み重ねによって開放が果され、そこから恋愛的情動が生まれるという運びになっているところが、ありがちなメロドラマとは一線を画しているばかりか、人におけるコミュニケーションというものの本質に鋭く切り込んでいる印象を与える、実にシャープな作品だと思う。自分の意思が怖い 何をするのか分からない強い意志が…と思っていたエイダが彼なら私を救えるという気持ちにもなっていく過程に納得感があった。

 だが、再見して特に強い印象を残したのは、エイダの開放と救いを切り開くことにおいて決定的な役割を果たしたとも言うべき存在であった、エイダのまだ幼い娘フローラ(アンナ・パキン)に付与されていた“天使のイメージ”だった。学芸会の衣装のような天使の羽を普段も身に付けるようになった彼女が口ずさんでいたバーバラ・アレンの伝説は、アート・ガーファンクルが歌っている、高校時分からの僕の愛聴歌でスコットランド民謡が元になっている歌曲なのだが、その歌が収められているアルバムタイトルが『エンジェル・クレア(Angel Clare)』だったりして、いかにも天使が強調されている。フローラが母親の言いつけに従わないで鍵盤の木片をベインズのもとには届けなかったからこそ起こった事件がなければ、エイダが再び自分の生身の声を取り戻そうとレッスンに勤しむ日々は訪れなかったように思うから、フローラこそが彼女に福音をもたらした神の使いというわけだ。そして、福音に至る前には、途轍もない試練が待っているあたりにも如何にもな設えが施されていたように思う。

 それにしても、何事も思念では済まずに体感を求めずにはおかないエイダの意志の手強さ、手に負えなさには圧倒される。ベインズとの間で交わしたレッスンもそうだったが、何より圧巻だったのは、自身の分身どころか核心とも言うべきピアノとの接点である指を一本切り落とされたことによってイメージした“死”というものも、それをイメージした以上、体感させずにはおかないのがエイダの抱えていた囚われで、海中に投げ棄てさせたピアノに結ばれたロープの輪に自ら足を差し入れて諸とも身投げしないではいられない有様だった。死を体感したうえでの再起でなければ、本当の生の意志が得られないと無意識のうちに身体が求めるということなのだろう。まことに苛烈な姿に恐れ入るのだが、女性にはそういう特性が大なり小なり備わっているような気がしてならない。女性には敵わないと男たちがよく感じることの根源に繋がる部分があるような気がする。

 一世を風靡した感があったマイケル・ナイマンの名を聞くことがとんとなくなってしばらく経つような気がするが、久しぶりに画面とともに聴くと、深みのある清澄な調べとして響いてきて、作品によく合っていると感心した。
by ヤマ

'22. 4.25. あいあいビル2F



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