『悲しみは空の彼方に』(Imitation Of Life)['59]
監督 ダグラス・サーク

 二十年近く前に観て大いに刺激を受けたエデンより彼方に['02]がオマージュを捧げていたダグラス・サーク作品『天はすべて許し給う』を翻案する際に、黒人差別に係る部分を持ち込む元になった作品だと当時、仄聞して以来の宿題映画をようやく観た。原題の「Imitation Of Life(まやかしの人生)」どころか、白人女優ローラ・メレディス(ラナ・ターナー)にしても、黒人家政婦アニー・ジョンソン(ファニタ・ムーア )にしても、アニーが娘に言った自分を恥じるのは罪、でも、自分を偽るのはもっと悪いとの矜持で暗黙裡に結ばれた堂々たる生き様を果たしていて、大いに観応えがあった。

 六十余年前の作品ながら、先ごろ観た世評の高いあのこは貴族の華子(門脇麦)と美紀(水原希子)なんぞより、よほど“シスターフッド”なるものを感じさせてくれるローラとアニーだったように思う。それにしても、本作が何ゆえ「メロドラマ」とされるのだろう? 二組のシングルマザーの共生を描いた女性映画のようにしか思えなかった。もっともジャンル分けなぞ、どうでもいいことだ。スリリングな展開に目の離せない堂々たるドラマだったように思う。

 期せずして『エデンより彼方に』と同時期に観たデブラ・ウィンガーを探して['02]を想起させる部分も、ローラが女優として成功していく過程において描かれていて、非常に興味深かった。父親が白人で外見的には黒人の娘には見えないサラジェーン(スーザン・コーナー)の持つ白い肌と、新人女優として売り出すには後れを取った若さを補って余りあるローラの美貌が、功罪を併せ持つ外見として対置されていて、自身に備わったその個性的な特性とどう向き合っていくかの葛藤が対照的に描かれているように感じた。

 ローラは、芸能事務所のオーナーマネージャーのアレン・ルーミスから、洗練されながらも露骨な形で枕営業を求められて屈辱の涙を流し、彼女をスターダムに押し上げた舞台作家兼演出家のデヴィッド・エドワーズからは私は主演女優と必ず恋をすると明言されそれでも構わないわと公私に渡るコンビを組み続けながら、巧みな制御と強運によって自分を恥じるのは罪、でも、自分を偽るのはもっと悪いとの矜持を貫き、両者とも良好な関係を保ちつつ十年に渡る歳月を掛けて、イタリアの世界的映画監督フェルーチがスケジュールを譲歩してまで出演を求める大女優になっていく。娘のスージー(サンドラ・ディー)や女優として成功する前に恋に落ちたスティーヴ(ジョン・ギャヴィン)との関係に迷い悩みながらも盟友家政婦アニーの支えを得て成功を手に入れて、若き日の夢を実現させながらも、家庭的充足を得られないことに一縷の虚しさを洩らす姿が描かれていた。

 サラジェーンの抱えた葛藤は更に過酷で、黒人差別の露骨な時代にあってメレディス家のなかではついぞ感じないで済む差別の厳しさに怯み、肌の色の違う実母への愛憎と己が出自に対する憤りが長じるに従い深くなっていく姿が描かれていた。ある意味、親子で肌の色が違わなければ、かような葛藤を抱かずに済んだであろうことが示されることによって、ローラの美貌が背負っていた負の側面を補強していたような気がする。

 美しく生まれようが、黒人ながら白い肌に生まれようが、性差別や人種差別が根底にある以上、被差別者の人生は、容易に自己解放を遂げられない“まやかし”を余儀なくされるものであることを描きつつ、それに抗い、まやかしではない人生を貫いた二人の女性を描いていたように思う。破格の壮麗さをもって参列者に驚きと畏敬を与えていたアニーの葬儀は、そのことへの賛辞として現出させていた気がする。およそメロドラマとして映ってこなかった所以だ。
by ヤマ

'22. 3.22. BSプレミアム録画



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