『博士の愛した数式』['05]
監督 小泉堯史

 ひょんなことから『容疑者Xの献身』の話をしたついでに十三年前に綴った映画日誌を読み返したら、やおら本作を観たくなって、録画してあったもので初めての視聴をしたところ、実に深く美しい映画で感銘を受けた。

 僕は文系の学歴だけれど、数字はわりと好きなほうで、なかでもお気に入りは「8」だ。だから、じゃんけんは必ずパーを出すし、麻雀牌で好きな牌も八索で、学生時分に文芸サークルで使っていた筆名も嵌八索だった。数字の中で、0以外で唯一途切れなく円環する文字の形が好きで、0のようにシンプルではなく、一つ捻ってあるところが好みだ。だから、博士(寺尾聰)の記憶が80分しか持たないという設定に、「お、8と0で来ちゃったよ」と嬉しくなったのだが、さらに嬉しかったのが、『容疑者Xの献身』で気に入っていた「おもしろい」「興味深い」のリフレインに相当するような家政婦(深津絵里)の足のサイズ24に対する「実に潔い数字だ」との台詞や、彼女の誕生日を連ねた220に対する「チャーミングな数字だ」などによって示される数学好きの心根が、素数や友愛数、完全数を語るなかで遺憾なく発揮されていたことだった。それが実に美しく感じられて嬉しかった。そして、本作でも鍵になる言葉は、僕にとっては、やはり「美しい証明」だった。

 割り切れない人の世の生き難さを美しい解へと導く式だと示された、博士の愛した“オイラーの公式”のような人間関係にも心打たれたけれども、最も心打たれたのは、人間は80分の記憶しか持てない程に囚われを削ぎ落せば、その心映えはかくも、と思えるような博士の存在が証明していた“人なるものの本性のありよう”だった。無論それは、博士の教えを受けて数学好きになり数学教師になった青年(吉岡秀隆)における博士像ではあるのだけれども、あれだけの授業を行えるほどの薫陶を与えた人格の存在は、その数学教師の存在そのものが証明しているわけで、そういう継承と薫陶こそが、まさしく「美しい証明」のように感じられた。

 1975年で時間が止まって10年、1985年と言えばバブル期前夜ということになるが、家政婦派遣業のようなものが既に始まっていたのだろうか。ともかくもケータイ電話の鳴る音が一度もしない点でも、実に美しい映画だった。

 自分が成し得なかった親子の家族的な睦まじさを目の前で日々繰り広げながらも、日々更新され忘れさることのできる博士の姿というものを毎日蓄積していく嫂(浅丘ルリ子)の苦衷は、あの年齢に及んでも尚と思うほかないほどのものだったわけだが、毎日の蓄積という形で積み重ねられなければ、もっと早く木戸は開かれたろうにと思うほどに、人の心の割り切れない無理数の果てなさを思わずにいられなかった。

 家政婦の十歳になる息子は、頭のてっぺんが平たいことが√ 記号を思わせると、博士からルートという愛称を授けられる。博士曰くいかなる数をも包み込める素晴らしい記号ということであったが、それを聞いて、僕の好きな数字の「8」こそルートだと思った。僕は、電卓の表示をイメージしたのだが、0から9までの全部を包み込める数字とも言えるわけで、その8と0による“80分”が暗示していた“囚われからの解放”さえ果たされれば、人の徳性は、ぐっと上がりそうな気がしてくる嫂の姿だった。

 昔は、だからこそ、おおらかさを徳としていたはずなのに、消費社会のモノを売らんがための「違いのわかる」を称揚してきた挙句「こだわり」という言葉が、かつてのマイナスイメージからプラスイメージの言葉にすり替わる世の中になってしまった気がする。「簡単にはわからないもの」より「わかりやすいもの」のほうが持て囃されたり、まったく美しさから、ひたすら遠ざかっていくのみだ、世の中は。などという感傷が湧いてきた。
by ヤマ

'21. 4.20. BSプレミアム録画



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