『八月の鯨』(The Whales Of August)['87]
監督 リンゼイ・アンダーソン

 最初に岩波ホールで観たのが、'89年3月で、翌年、地元の市民映画会にて『ピショット』との二本立てを観て以来だから、三十一年ぶりの再見だ。三十歳過ぎで観た老境映画を還暦過ぎて再見すると、どう映って来るのかが自分でも興味深いところだったが、当然ながら当時かなり遠くに感じた老境が、この歳になってもさっぱり近しく感じられなかったことが面白かった。

 なぜだろうと振り返ると、まだまだ自分が若い気でいるからというよりは、生活感覚の違いのほうが大きいように感じた。やはり島持ちの別荘暮らしのなかで、板についた小綺麗でお洒落なスローライフを送っている老姉妹の優雅さは、少々の寂しさや意識せざるを得ないであろう死期、介護負担などを凌駕して、古き良き時代を感じさせるものであって、親近感は湧かない。年老いても、あのくらいにお洒落に美しくなどと思う余地なく、もともと雅には程遠い暮らしぶりで僕が過ごしてきているからだろう。嘘か真か没落したロシア貴族の末裔と称するマラノフ(ヴィンセント・プライス)のダンディさよりは、リビーに五月蠅がられていた修理工ジョシュア(ハリー・ケリー・ジュニア)のがさつさのほうが遥かに近しい身の程なれば、無理からぬ話だということは、年齢が近くなってからの再見だからこそ明瞭になった部分だという気がした。

 ちょうどチラシ整理をしているさなかだったので、手元にあったものを持参したのだが、「配給:ヘラルド・エース/日本ヘラルド映画」と記されているから、リバイバル上映時のものではなく、最初の公開時のチラシのようだ。リリアン・ギッシュ91歳、ベティ・デイヴィス79歳、アン・サザーン78歳と記されていて、驚いた。セーラ(リリアン・ギッシュ)の姉リビーを演じたベティと、娘時代からの姉妹の友人ティシャを演じたアン・サザーンが1歳違いとは思わなかった。姉妹を演じた二人の実年齢が逆転しているばかりか、十歳以上の開きがあることでのリリアン・ギッシュの元気さに目を奪われ、そのことの記憶はあったけれども、アンのことは、すっかり抜けていたので、その若々しさに驚いたのだ。

 観賞後の談話会のなかでそのことを披露すると、アンは78歳で違和感ないけれど、ベティの79歳が老け過ぎで、あれには老けメイクが入っていたのではとの意見が出て、大いに意表を突かれた。ベティの真っ白で美しく豊かなロングヘアが地毛だったのか否かであれば、もし言われてみれば多少思わぬでもない部分を感じるが、79歳のベティが老けメイクをするという発想は実に思い掛けなく、改めて近年の高齢者の年齢イメージが激変してきていることに想いが及んだ。江戸川乱歩が大正十四年(1925年)に書いた短編小説を読んだときもう六十に近い老婆だったというフレーズに出くわして感慨深かったのは十五年前だが、『八月の鯨』のベティ・デイヴィスは老けメイクかもしれないという観方には、それに近いくらいのインパクトが僕にはあった。

 セーラが若くして戦争未亡人となった“先の大戦”というのは、第二次世界大戦ではなく、1914年開戦の第一次世界大戦のようだったから、まさに乱歩の心理試験に記されたその家の主は、 官吏の未亡人で、といっても、もう六十に近い老婆だったとの時代と、セーラの年は違えど時期的にはそう変わらない。そのセーラが未亡人となって失意に沈んだ歳月が十五年にも及ぶというのも、その時点での彼女の年齢からすればかなり凄いことだと思うけれども、生きている時間に対する物差しや価値観といった感覚が随分と違っている時代の人々だったように思う。そのような彼らが二つの大戦を潜り抜け、老境を迎えていた本作の時代設定は、いつだったのだろう。扉を開くとオレンジ色の光が差していたから電気冷蔵庫だったように思うが、それをrefrigerator(冷蔵庫)ではなく、ice box と呼んでいたとの指摘が談話会のなかでされたことや、ティシャが連れてきた不動産業者の乗っていた車の型式、貧困層ではなくても白内障が失明に近い状態に至っている状況などからすると、せいぜいでも '60年代後半のように思う。だから、二十代前半で戦争未亡人になっていたとすれば、それから半世紀経ったセーラ姉妹の歳は七十代となるわけで、'50年代後半だと六十代となる。今の感覚からすれば、少々老け込んでいる感は否めないけれども、演じた女優たちの実年齢からすれば、とうてい老けメイクを要するとまでは思えなかっただけに、なかなか鮮烈だった。

 また、けっきょく画面には登場しなかった「八月の鯨」について、メイン州の小さな島ということなら、大西洋側なのだろうが、それなら鯨種は何だったのだろうということが気になったという方がおいでて、これまた魂消た。八月になるたびに戻ってくるような習性というところが気になったのだろう。『八月の鯨』という作品は、なにせバカ当たりした映画なので、自主上映活動に携わっていた時分には、幾人とも意見交換をしたことがあるが、鯨種の話は初めてで、ホントに映画というのは観る人によって掛かるフックが違うとつくづく思った。これだから、いろいろな人の意見を伺うのは面白いと改めて感じた。

 そして、やたらと絵画的に美しい映画だったような覚えがあったものだから、オープニングのくすんだ色具合に驚いたのだが、回想場面だったことに納得して思い直すと、その“くすませ加減”にも絵画的意匠が凝らされているような気がした。二人の姉妹が暮らす木造家屋の食卓や調度品などを捉えた場面は静物画のように美しく、海を臨む景色や花々の咲く小道を捉えた場面は風景画のように美しかった。白内障で失明しかかっている姉を抱えた老老介護の暮らしぶりだとは俄かに思えない優雅さに、いささか老境を綺麗に描き過ぎなのではないかという気がしたが、過日燃ゆる女の肖像を観て、レズビアンを綺麗に描きすぎで物足りないと評していた友人に「この老女たちの描き方はどうなのか」と訊ねたところ、「全然問題ない、素敵な映画よ」とのことで、これまた面白かった。いずれも実に絵画的な映画ではあるのだが、映像イメージとして綺麗に描き過ぎという尺度で観比べれば、その良し悪しは別として、僕としては『八月の鯨』のほうが断然上回っていると思うので、実に興味深かった。

 リビーが頬にあてていたブラウンに艶めく切髪のことも話題に上った。僕は、てっきり夫(マチューと言っていたように思う)の遺髪だと思っていたのだが、女性たちの見解は異なっていた。ある人は、今や全く疎遠になっている娘アンヌ(登場しない)が生まれたときに取っておいた髪【それにしては線が太く大人の毛髪に見えた】だと言い、ある人は今やすっかり色が抜けてしまった自分のかつての髪【確かに男の髪にしては線が細く柔らかそうだったが、そんなものを記念に取っておいたりするのだろうかとも思う】だと言っていた。いずれにしても、今や失っているものを偲んでいる点では同じなのだが、夫か、娘との関係か、自分の若さかでは、リビーの偲ぶ対象としての意味合いは随分と違ってきて、それぞれに面白いと思った。それと同時に、セーラが偲んでいた夫(フィリップと言っていたように思う)の遺影と対になる、リビーの偲ぶ遺髪というのは、座りがいいようで、よくない気もした。

 表題となっている八月の鯨が何を意味するかについては、“希望”だと語る方がいて、そのことも心に残った。僕は、敢えて希望と明言するよりも、八月に決まったように“夏の別荘に集う三人の老女たち”のことを、彼女らが若い時分から観るのを楽しみにしている鯨に擬えているのだろうと解するほうが好みだから、どういう希望を観て取ったのか訊ねてみたい気にもなったが、セーラの欲しがっていた眺望窓の設置工事に反対していた姉が意見を撤回したことに喜んだセーラが、別荘を去るのを止めて残ることにした顚末が示している姉妹の今後の生活のことを指しているのだろうと思い、敢えて問わなかった。破れかけた老々依存の再生に、希望を観る向きは多いのかもしれないとは思う。しかしながら、思えば、彼女たちの暮らしぶりは、大海の鯨の泳ぎのごとく悠然たるものだったような気がしてならない。
by ヤマ

'21. 4.19. あいあいビル2F



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