『善き人のためのソナタ』(Das Leben Der Anderen)
監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク


 映画作品の惹句にもなっている「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」という劇作家ゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の台詞そのままに、旧東ドイツのシュタージ[国家保安省]の真面目で優秀な職員であるがゆえに冷酷非情だったヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)が、本当にソナタを聴いただけで変貌してしまってはお笑い種なのだが、『仕立て屋の恋』での覗きのイール氏を髣髴させるような盗聴のヴィースラー大尉の風情に実に味があり、また、CMSこと女優クリスタ=マリア・ジーランド(マルティナ・ゲデック)の女っぽさにとてもリアリティがあって、なかなかの作品だった。

 このソナタというのは、シュタージから活動禁止の謹慎処分に付されていた嘗ての花形演出家イェルスカ(フォルカー・クライネル)からドライマンに贈られたものだったが、ここでは単に音楽ということではなく、情緒や知性といった人間的なるものの象徴なのだろう。この作品で言えば、すなわちヴィースラーがヘッドフォン越しに盗み聴いていたドライマンとクリスタにまつわることごとの全てが彼にとってのソナタだったということのような気がする。

 そういう意味でのソナタを傾聴するなかで、生き生きとした感情の迸る人の姿への想像を触発され、ブレヒトの戯曲を盗み読むようにもなり、人間的な心に目覚めていったヴィースラーにとって決定的な出来事というのは、やはり、スタンドバーで直に声をかけて言葉を交わしたクリスタが、自分の忠告を聞き入れて、ヘンプフ文化大臣(トマス・ティーマ)の呼び出しに応じてやむなく自ら夜伽に行きかけていたのを取りやめ帰宅したことだったような気がする。それを盗聴で知ったヴィースラーにとって、このときから彼女は見張る対象ではなく見守る対象へと変わり、実際に我が身の危険を省みず彼女を守るために行動することになったような気がする。ヴィースラーが手に取り読んでいたのがいかなるタイトルの作品だったのかは、ドイツ語を読めないので判らなかったが、もしかすると彼が手にしていた戯曲は、『セチュアンの善人』だったのかもしれない。ヴィースラーのなかで次第に強くなってくる人間性への目覚めの過程が、ウルリッヒ・ミューエの無表情さのなかで滲み出る視線の演技とも言うべき絶妙さによって見事に表現されていたように思う。

 また、ヴィースラーの変化については、過剰にクリスタへの思慕に頼らずに、自らの職務に忠実だった彼がシュタージに対して、反抗心までは行かない厭組織感のようなものを抱きつつある姿がうまく描かれていたようにも思う。そこに重要な役割を果たしていたのがブルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)であり、とりわけ国家保安省の若い職員に最高権力者ホーネッカー東独国家評議会議長を揶揄するジョークを白状させる食堂での彼の姿を見つめるヴィースラーのまなざしには、ある意味、彼がずっと律儀に真面目に服してきた職務に対して加えられた侮辱への憤慨とも言うべきものが込められているようにも感じられた。映画の冒頭でヴィースラーが被疑者から睡眠を奪う拷問によって自白を迫るシーンが出てき、彼の研修抗議のなかでは彼のその手法を批判する意見が受講者から出てくる場面があるが、そのとき彼は、揺るぎなき確信と自負によって自身の職務についていることが示されていたように思う。食堂の場面は、その場面と呼応してくるわけだが、彼の職務において、技巧を凝らして自白を促すことこそは、国家保安という大義のためだけに許される、ある意味、神聖とも言うべき特別な行為であって、ブルビッツのように面白半分にすることでも、自らの位置と権力を誇示するために使うことでもないというのがヴィースラーの自負と誇りであり、実際そう思うようにして携わってきたことだったのだろうから、同期の出世頭であるブルビッツによって目の前で汚されたと感じているように、僕の目には映った。ブルビッツ部長の高笑いにニヤリとも同調せず、じっと冷ややかに見つめていたヴィースラーの視線が印象深い。

 それにしても、ヘンプフ文化大臣やブルビッツ部長の姿を見るまでもなく、国家権力が秩序と保安の名のもとに監視・厳罰主義に走り始めると、社会が必ず悪くなるのは、結局その権力を行使するのが人間であり、個人であるからなのだが、昨今、日本の世の中はそちらのほうに動き始めていることが気にかかる。それだけに、尚更こういう作品は大事だと思う。


参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/Das_Leben_der_Anderen.htm
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20070324
推薦テクスト:「シネマ・チリペーパー」より
http://homepage3.nifty.com/ccp/hihyou/maru09.html
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0709_3.html#yoki
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=357985351&owner_id=3700229
推薦テクスト:「ミノさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1540688653&owner_id=2984511
by ヤマ

'07. 3.12. シネ・リーブル神戸



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