『頭上の敵機』(Twelve O'Clock High)['49]
監督 ヘンリー・キング

 昨年再見した眼下の敵['57]の前に、こういうタイトルの映画があったのだと思って観てみると、このところ続けて観賞したヘンリー・キング監督&グレゴリー・ペック主演というコンビによる作品だった。

 冷徹非情な指揮官もグレゴリー・ペックが演じると、無理に務めている強がった感じが殊更にしてくるのだなと思っていると、映画のなかでも実際に無理が来て精神に変調をきたしてしまい、いささか驚いた。覚悟の上とはいえ着任早々から総スカンを食らいながらも、厳しく鍛え直し、落ちた士気を立て直したなかで引き寄せたビショップ中尉、コッブ少佐といった自分の見込んだ部下たちが次々と戦死していくのだから、ちょうど配役に似合った展開だったようにも思う。命を賭した本物の“最大限の努力”などというものは、所詮は国家間の利権争いでしかない戦争ごときで、してはいけないし、させてはいけないと改めて思った。

 1942年の対独空爆作戦から過ぎ去って七年となった戦後に、思い掛けなく所縁の品を見つけて手に入れ、当時の上司フランク・サベッジ准将(グレゴリー・ペック)と過ごした日々を回想していた弁護士のストーバル元少佐(ディーン・ジャガー)が、なかなかよくて映画を引き締めていたように思う。第一次世界大戦を最前線で戦い、再び軍務に就いたら地上勤務の事務方として配属されたという“前線も後方も武官も文官も経験して軍隊なるものを知悉する頭脳派”という立ち位置が効いていて、演じたディーン・ジャガーに味があり、サベッジ准将の微笑んだ“官僚的悪智恵”なるものが、程よく似合っていた気がする。また、プリチャード将軍を演じていたミラード・ミッチェルの声の調子が良く、グレゴリーの声のよさとなかなか好いアンサンブルだったように思う。

 それぞれタイプの異なる男たちのキャラクターが皆とても鮮やかに造形されていて、近頃はとんとお目に掛かれることのなくなった“男性仕様の映画”の醍醐味を味わった。とりわけ、准将が更迭させたとも言える親友の前任者ダベンポート大佐(ゲイリー・メリル)に指揮官失格の烙印を押さず、折しも先ごろ始まったばかりの朝ドラ『おかえりモネ』でクローズアップしていた独眼竜政宗の遺訓仁に過ぐれば弱くなる 義に過ぐれば固くなる 禮に過ぐれば諂となる 智に過ぐれば嘘を吐く 信に過ぐれば損をするの“仁”を体現している人望篤き人格者とし、サベッジであれダベンポートであれ、任に当たった人物の“力量”の問題ではなく、戦時という非常事態における組織マネージメントの難しさを描こうとしている作品であることに感心させられた。それこそが即ち、語り手であるストーバル弁護士の視座というわけだ。オープニングクレジットによれば、史実に材を得、戦闘場面には実戦の記録映像を使ったという作品ながら、生々しさではなく、非常に知的に昇華された戦争が描かれていたように思う。

 戦時ではないけれども、いまどきの行政組織のリーダーとの違いとして最も際立っていたのが、毎度の出撃に機乗していたサベッジ准将のみならず、プリチャード将軍までもが密かに爆撃機に潜り込んで、最前線に立ち“生の現場”を知ることを決して疎かにしていないという“指揮官たるものの身の処し方”だった。機乗命令の出ていなかった狙撃の名手マクレニー軍曹どころか、事務方のストーバル少佐や軍医のカイザー少佐まで勝手に機乗するというのは、規律の点からして苦虫を噛んでいた准将ならずとも些か遣り過ぎの感が拭えなかったが、'40年代当時としては、冒頭にクレジットされた彼ら前線勤務に就いたアメリカ軍人たちの気概というものを謳い上げたかったのだろう。

 今回のBSプレミアム放送では、程なくして『眼下の敵』も放送されて公開順となっていたが、放映側でもタイトルの対照性を意識しての番組編成だったに違いない。両作ともに実に観応えのある男前の映画だと思う。
by ヤマ

'21. 5.20. BSプレミアム録画



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