『眼下の敵』(The Enemy Below)['57]
監督 ディック・パウエル

 先ごろ瞳の中の訪問者['77]を観て、「眼科の敵」との小ネタに膝を打ったこともあって、十代の時分にTV視聴したきりだと思われる本作を再見したら、指揮官に備えていてもらいたい知性と誇りの望ましき姿が活写されていて、コロナ禍の時節柄、改めて心打たれるところがあった。また、不用意に爆雷架に指を掛けてしまって切断の重傷を負い、除隊したとしても元の時計職人には戻れなくなった部下に対して、再装填を急がせた自分の責任だと述べる米軍駆逐艦長(ロバート・ミッチャム)の人間力を見せてやりたいお偉方のなんと多いことかと、森友問題の悲劇も想起した。戦時でも不用意でもなく失われたのは、指どころか命なのだ。

 海上と海中に分かれて互いの作戦と心理を読み合い、知力を尽くして巡らせる駆け引きの大胆でスリリングな応酬も見どころながら、戦争について悲惨と破壊に終わりはない…敵は我々自身の中にあると語る米軍駆逐艦長と無益な戦争だ。道理は曲げられ、目的も不明…と漏らす独軍潜水艦長(クルト・ユルゲンス)の醸し出していた知性が眩しかった。昨今は、威勢と反知性しか窺えない指導者がやたらと目に付くだけに尚更だ。

 非常事態においては通常とは異なる判断が必要となることを頭では分っていても、実際に的確に指揮することは極めて困難なのだが、通常は危険域とされる深度であっても完全にエンジン停止して潜むことのできる海底がからくも手に届く深度であることを確認すれば、躊躇なく緊急事態指示ができたり、潜水艦長自身が思わず「悪魔」とぼやくほどに追い詰められた神経戦によって擦り減った艦隊員の士気がもう限界にある状況を見て取れば、無音を要するはずの艦内でレコードをかけて、斉唱を促し鼓舞することのできる潜水艦長が発揮していた決断力のカッコよさには、駆逐艦長の見せた人間力以上の魅力があったように思う。そういった点では、駆逐艦長に手の内の悉くを見破られ、絶体絶命のところからの逆転の一手を放って形勢をひっくり返した独軍潜水艦長のほうが、百戦錬磨の年季に見合った技量の上回りを見せていたような気がするけれども、いまのアメリカ映画だと、敵方指揮官にそのような人物造形を果たすことは到底できないように思った。しかも「悪魔」とさえ呼んだ相手に対して退艦猶予のための五分間を与える、見事なまでの騎士道精神を備えた人物としているのだから、畏れ入る。

 もっとも、このエピソードというか借りがなければ、いかに人間力のある駆逐艦長とはいえ、独軍潜水艦長と負傷して動けなくなった彼の友人部下のために、ぎりぎりの状況のなかでロープを投げて救出するという展開が些か不自然になってしまうところがあるようには思う。敵艦長の技量を認めながらも「どんな相手か知りたくない、殺そうとしている相手だ」と言っていた駆逐艦長は「遺恨ではなく、ただ任務に就いているだけだ」と副官に話していたが、過去に新婚の妻を独軍潜水艦による貨物船攻撃で亡くしていたからだ。

 ともあれ、第二次世界大戦時において既に「機械が回転し、電気が答えを出す戦争になってしまい、人間味が失われた」と嘆き、軍人であることに嫌気のさしてきていたと思しき独軍潜水艦長が、「もうロープは投げない」と言う米軍駆逐艦長に「いや、また投げるね」と最後に語ることで、今どきの威勢と反知性しか窺えない指導者に是非とも見せたいような映画になっていた。戦争下にあっても敵味方を超えて持つべきヒューマニズムを謳いあげる、実に観後感の好い作品だ。

 その意味でも、両艦長の指揮がいかに理に適っているかをきっちり見せることが、とても重要であることをしっかり押さえていたことに感心した。巧みな航行によって接近した独軍潜水艦の追跡に際し、最初に減速させて後尾魚雷の発射を誘って戦力ダウンを図り、部下の艦隊員たちからの“素人艦長”呼ばわりを霧消させる流れを作った初動対応のようなことは、今回のコロナ禍においても各国各地のリーダーにおいて、その差が実に顕著だったように思う。そこで明らかになったのは、やはり“治世(に対する信頼の獲得)には、知性が絶対的に必要だ”ということだったような気がする。
by ヤマ

'20. 5. 3. DVD観賞



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