『停年退職』['63]
監督 島耕二

 高校時分の映画部長から託された課題映画だったのだが、歪な角度で滑り込んでくる通勤電車のカットから、都会の歪んだ通勤事情を映し出して始まった本作は、勤続三十年、五十五歳で“定年ではなく停年と記された退職”を迎える某社厚生課長矢沢(船越英二)の最後の九十日と言うよりは六十日を追った物語だった。軒並みいかにもステロタイプなキャラクターの揃い踏みのような人情劇で、若い時分に観たら歯牙にも掛けなかったような気がするものの、「なんだかなぁ」との笑みを零しつつ、まるで絵本を愉しむような心持で楽しめることに、我ながら驚いてしまった。これを年季と言うのか寄る年波と言うのか判らぬが、妙な感慨が湧いたのは、僕自身が既に定年退職を経験しているからかもしれない。自分からは決して観そうにない作品をこうやって観る機会を与えられると、思わぬ発見があってなかなか面白い。

 成人して程ないと思しき年頃の娘のぼる(藤由紀子)と受験を控えた高校生の章一(倉石功)を抱え、仕事を辞めるわけにはいかず、出来得れば、嘱託で会社に残りたいと期待しつつ再就職の口を探している割には、五年前に妻を亡くす以前から家に置いていた感じのばあや(浦辺粂子)がいたり、三年前から付き合い始め月々のカネも渡しているバーのマダム(中田康子)がいて、飲んで帰る夜には手土産の寿司やら菓子を欠かさないという暮らしぶりに、何とも現実感を覚えられなかったことが、絵本感覚を呼び起こしたように感じる。娘の婚儀に備えてそれなりの蓄えはしてあると語っていたし、いったい如何ほどの給与を得ていたのだろう。「Bar yes」から「Bar ぐんじ」に名前を変えた自分の店というものを持てるようになることを機に、きちんと身を固めたいというマダムからの申し出を受けていた矢沢が得た再就職口はマダムの口利きによる舎監で、その月給は、マダムが店の賃料に要すると言っていた月10万円の半額の5万円だった。5万円を日銀の示している消費者物価指数換算で計算すると、今の10,230円が2,210円だから、23万円余りとなるが、企業からの賃金ということで企業物価指数のほうを採ると、10万円余りとなってしまう。

 前の前の代の同職課長が退職して十年になるという、人事ローテーションの悠長さとまるで見合わない、登場人物たちが話を運ぶうえで求められている感じのせっかちさの具合が妙に可笑しく、退職後は書道教室を開き若い娘に囲まれて暮らしている西田(南方伸夫)の六十五歳のいで立ちが如何にも老けていて、いささか困惑した。

 総務課長で退職した田沢(伊藤雄之助)は、退職金を元手に居酒屋と小料理屋の中間のような店をけっこう繁盛させていたようだけれども、停年退職をリスタートと捉える気概のまるでなかった僕からすれば、改めて、子供ら三人が退職時にはみな既に独立家庭を構え、子も成してくれていたことの幸いを思わずにいられなかった。

 それにしても、六十年代前半の本作でも既に「トルコ○○」との文字が赤く光る大きなネオン看板が映っていて驚いた。なんとはなく昭和四十年代の風俗だという意識だったのだが、昭和三十年代には既に普及していたようだ。本作は、ちょうど僕が小学校に上がる前の時分の映画なので、このネオンサインには大いに驚いた。オープニングエピソードが、今ならセクハラ発言以外の何ものでもないような“親身”を矢沢課長が、江波杏子の演じる二十歳過ぎの新入社員に見せる姿だったことも印象深い。これが、セクハラどころか掛け値なしの親身に繋がっていく。その入り口とも言うべき発言が封じられるようになっている今の職場だと、こういう人情噺は生まれようはずもなくなるわけで、職場が共同体だった時代の話だと改めて思った。

 また、最後で赤い傘に隠してキスを想像させるハリウッドの古典スタイルかと思いきや、その傘が落下して、藤由紀子と本郷功次郎の熱い抱擁がきちんと映し出されて、笑ってしまった。もうそういう時代ではないということなのだろうが、エンドマークに繋げるために下りていったカメラが石段下に転がって降る雪を受け止めている傘を捉えたカットが、ラストショットだった。のぼるが仮に悪妻になったとしても、「貴女は僕が自分で選んだ妻なのだから」との坂巻(本郷功次郎)の、それこそ“勇気ある”台詞は、なかなか凛々しかったけれども、それが実際に口説き文句として女性に有効に作用するようには思えない気もする。人生においては、カネを失くすよりも名誉を失くすことがつらいが、それ以上につらいのは勇気を失うことだと坂巻に語った矢沢は、その勇気を専務に対して見せたばかりに、嘱託社員を不意にするどころか、停年退職ひと月前にして専務肝煎り人事とやらで課長職を解かれるわけだが、坂巻の見せた勇気は、そうはならないことを願うばかりだ。

 停年と定年には「停年は退職する年齢がきて退職することの意味が強く、定年はその意味に加えて、やめるべきその年齢の意味合いが強い」というニュアンス的な差異があることをかつて従業員組合の役員をしていたという高校時分の新聞部の先輩から教わった。定めというだけあって、宿命のようなニュアンスがあるようだ。それで言えば、近頃は専ら「定年」のほうが使われているのも納得だ。本作の矢沢課長のように専務の顔色をうかがいながら、嘱託社員として残れるか否か落ち着かない宙ぶらりんの気持ちにされている姿をみると、そうはならずに済む今の再任用制度というのは、働き続けたい者にとっては、貰うものを貰ったうえで割と身の軽い気持ちで職を確実に得られる好もしい制度なのかもしれない。定年そのものを延長されると、退職金の支給も先に延ばされるのだろう。

 原作の源氏鶏太は、五、六冊ほど書棚にあるが、専ら妻の読んだ文庫本で、僕は『御身』しか読んでいないような気がする。それでも、映画化作品からの印象は、わりと作家の持ち味を的確に捉えているように思った。僕に本作を課題として託してくれた同窓生の映画部長は、“新と旧の狭間で両方の考え方が混在している戦後”を描いていると記していたが、まさにその通りで、若い小高(江波杏子)や坂巻の口を借りて「新」の考え方を生硬なほどに語らせていたような気がする。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/3401467153286177
by ヤマ

'21. 4.23. 日本映画専門チャンネル蔵出し名画座録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>