『ヤクザと家族 The Family』
監督 藤井道人

 ヤクザ的にピュアな主人公が懲役刑に服している間に世の中が変化していて、出所してから後の居場所が得られず、己がヤクザ道に半ば殉死を遂げるようにして幕を引く映画というのは、任侠ヤクザの時代から現代ヤクザに至るまで昭和のヤクザ映画がある種の定型として繰り返し描いてきた物語だから、昭和のショの字も出てこない、平成から令和に至る時代のヤクザを描いた作品ながら、何だか濃厚に昭和の香りがした。

 もっとも、ある種の“時代遅れ”というのは、ヤクザ世界の渡世に限らず、人の処世における普遍的なテーマでもあるわけだが、その観点からすると、ただの世情の変化では済まない制度的激変を跨いだ暴対法以前と暴対法以後を描いたヤクザ映画というのは、本作が初めてではないかという気もした。いわゆる“反社”なる言葉は、暴対法以前にはなかったように思うが、ヤクザというある種の文化すら形成しているように感じるウエットな言葉と違って、ひどくドライで人間味のない言葉のように感じる。その、まさに人間扱いされない“ハンシャ”の現況の惨状を巧く描き出していたように思う。

 ただ、ヤクザ同士の抗争での1人刺殺による初犯で14年の刑期になるのかなとの疑問と、工藤由香(尾野真千子)の職場が市役所だったはずなのに、途中で会社に変わっているようだったりした不審点は、妙に腑に落ちなかった。他方で、今の時代にヤクザをどのように描くかについては、かなり気を使っていたように感じた。在日のこともさりげなく折り込んでいて、いろいろと触発される作品だったように思う。

 とりわけ、昭和のヤクザ映画のある種の定型のような構えという、社会派とは一線を画するエンターテインメント・スタイルを採りながら、スタンスには社会派の眼差しが宿っているような感覚が大いに目を惹いた。奇しくも先ごろ地元紙で「追跡・白いダイヤ~高知の現場から~」と題する調査報道が連載されていたばかりだったから、暴対法以後のシノギに、賢治(綾野剛)の叔父貴に当たる竹田(菅田俊)たち老ヤクザが、シラスウナギの密漁に勤しんでいる姿に、出所してきた賢治が情けなくなる場面が妙に生々しかった。

 組長の柴咲(舘ひろし)に言わせれば、賢治同様に生真面目なヤクザの中村(北村有起哉)が、塀の外と内に分かれたことで、賢治のようなピュアさを失っている対照というのは、この手の定型における常套ではあるのだが、ありがちな彼自身の変節というよりも、暴対法に追い込まれた悲劇として描かれていたことが目を惹いた。川山(駿河太郎)殺しを中村にもさせていたのは、ピュアヤクザとして二人を併置するためのものだったような気がする。

 抗争で命を落とした組頭木村の遺児である翼(磯村勇斗)のように、アウトロー的な生き方を余儀なくされる者たちというのは、暴対法があろうがなかろうが、必ず一定割合で裏社会に排出されるのだろうが、翼が明言していたように、ヤクザにはならない即ち組織には属さないというだけで、携わるシノギそのものは、暴対法前後で何ら違いはないということなのだろう。翼たちのように組織に属さないか、加藤(豊原功補)たちのように、巧妙にかいくぐったり、合法化したりするだけのことだったりするのだから、それでは、暴対法とはいったい何だったのか、というのが作り手の立ち位置のような気がした。

 そして、ヤクザとか反社とか、暴対法前後とは関係なく、賢治とは何者だったのか語ることを彩(小宮山莉渚)から求められて翼が見せていた、ラストシーンでのいかにも嬉しそうな笑顔が何とも印象深く、切なかった。ハンシャとかザイニチといった括りでカテゴライズして語られるのではなく、個人として眼差しを向けられることが、はぐれ者同士の世界以外ではおそらく殆どなかったであろう翼の半生が偲ばれるような気がした。




推薦テクスト:「Filmarks」より
https://filmarks.com/movies/90932/reviews/107111384
by ヤマ

'21. 2. 7. TOHOシネマズ3



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