『ライフ・イズ・ビューティフル』(La Vita E Bella)['97]
監督 ロベルト・ベニーニ

 観た年度のマイベストテン第二位に選出していた本作の二十二年ぶりの再見に先立ち、高校時分の映画部長から「ドイツ人医師が収容所で投げたなぞなぞの謎」をどう観るのかとの宿題を貰っていた部分については、「デブで醜い黄色のココと鳴く、糞を撒き散らして歩く」のが「コガモ」だと思えないのは、ナチス軍医(ホルスト・ブッフホルツ)と同じだが、ヒヨコはピヨピヨと鳴くのであって、ココと鳴くときにはもう黄色くはないから、なぞなぞの答えとしては解らない。だが、この場面の持つ意味については、彼がもしかすると自分たちを助けてくれるかもしれないとの期待を抱いていたグイドに引導を渡す無慈悲な言葉として、強烈な意味を持っていたように解している。

 収容所で軍医が給仕役に取り立ててくれたのは、友人としてグイドの命を惜しんだからではなく、ウィーンにいる難敵からの謎を解くためにグイドの機知が欲しかっただけであることが明らかになって、グイドを絶望的な気持ちに追いやっていたように感じた。千載一遇のチャンスを得たかもしれないとの思いが糠喜びに終わり、落胆するとダメージは却って大きいはずなのだが、挫ける暇もなくそれならそれで何とか自分にやれることはないかと足掻くグイドの姿が痛ましくも神々しい。

 そこで、トラックに乗って独軍に付いて行ってはダメだということを何とかして妻ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)に伝えようと無理をしたことが仇となってしまう顚末は、既見作ゆえに疾うに承知をしていたことだったけれども、二十二年前に総ては父親が自分のために貫き通してくれた嘘だったことを後で知ったとき、息子は何を思うのだろう。親が子に示し残してやれるものとして、これほど深く重いものがあるだろうかなどと思いつつ、人間は、愛する者の存在ということからこれほど強靭な精神力を得られるものかと不覚にも涙が流れた。こんなことが決してあり得ないとは思えないところが人間の凄さなのだ。と綴った部分については、それもさることながら、ドーラの心に残したもののことを想って、心打たれた。

 おそらくジョズエは、再会できた母ドーラに、父親がどんな人物だったのかを後に訊ねたはずで、本作の前半部分はドーラが息子に語って聞かせたグイドの姿であったわけだから、「これが私の物語だ」と語るジョズエにおいては、ただ“亡き父の物語”ではなく、“亡き父をかように語り偲ぶ母の物語”でもあったわけだ。前半はドーラが偲んだ夫グイドの姿で、後半がジョズエの偲ぶ父グイドの姿ということになる。まことに美しいグイドの人生だったと思いながら、ブレーキが利かず暴走の止まらない車で群列に突っ込みながら振っている手が、よけろの合図なのか、歓声への応えなのか、判然としないグイドの姿で始まった本作に相応しい駆け抜け方であったことに思い当たった。
by ヤマ

'21.12.13. あいあいビル2F



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