『フォート・ブロックの決斗』(These Thousand Hills)['58]
監督 リチャード・フライシャー

 僕が生まれた年の作品だ。よもやタイトルの「フォート・ブロックの決斗」が“汚泥に塗れた殴り合い”のことだとは思わなかったが、政治の季節が来る前の'50年代西部劇らしく、男の生き方とりわけ“フェアネス”について描いた正統ウエスタンの秀作だと思った。半世紀以上前の作品とは思えない色鮮やかさで始まったオープニングの夥しい数の牛の群れが圧巻で、今ではとても出来ないだろうと思わせる画面だったし、続いて展開される美しく黒光りする荒馬を乗りこなすロデオ場面が実に見事で、思わず引き込まれた。

 無職無一文だったラットことアルバート・ギャラティン・エバンス(ドン・マレー)が乗馬の腕前で黒馬シュガーを手に入れたことから始まり、牧場主となって上院議員候補にまでなる立身出世物語を通じて、人の生き方として大切なものを問い掛ける作品になっていた気がする。後にラットが九死に一生を得た際の命の恩人にして牧場共同経営者になったトム(スチュアート・ホイットマン)が、ラットから狼の毛皮狩りに誘われたときに、その“賢い”狩猟方法を聞いて発した“汚いカネ”という言葉は、思えば昔の映画にはよく登場していたのに、近頃はとんと聞かなくなったような気がする。同様に、銀行家の姪でラットの妻となったジョイス(パトリシア・オーウェンズ)の「フェアじゃないわ」という台詞も、同様のものとして耳に残った。

 カウボーイ気質のトムが、上昇志向に囚われ名士を望むラットと訣別する契機になった“酒場女ジェン(ジーン・ウイルズ)との結婚報告”をした際の売春婦を蔑んだ彼の発言や、恩義も想いもあったキャリー(リー・レミック)との別離はあっても、成功を手にするにつれ野心を膨らませていく手応えとそんな自分が嫌になると洩らす葛藤のなかに不実さは感じさせないラットの人物造形が目を惹いたが、ろくでなし牧場主イエフ(リチャード・イーガン)との対照において引き立っていたのは、ドン・マレー以上にリチャード・イーガンの好演によるもののような気がした。

 ジェンと同じ売春稼業に身をやつしていたキャリーのことを酒場の黒人給仕が「お嬢さん」と呼ぶ部分は、少々余計な気がしてならなかったが、最初にキャリーから自宅に誘われながらも逃げ出した初心なラットが「女のヒモ暮らしは嫌だ」と言いながら、彼女の蓄えた全財産と思しき2000ドルを借りて牧場経営に乗り出して成功し、名士の姪と結婚しながらもキャリーに対する恩義を蔑ろにしなかった姿が気持ちよかった。ジョイス嬢とキャリーとの間で揺れながらも、キャリーと結婚するなどという在りがちな物語にしていないところに観応えがあったように思う。

 牧場主として成功し、町の教育委員を務めるようになり、ジョイスと結婚し子供も得て上院議員候補にまでなり、日々忙しく働きながらも妻から「全然お肉がついてこない」と言われていたことが、“成功者が身にまといがちな心の贅肉”を示唆しているように感じた。もちろんトムの死が影響を及ぼした部分もあるに違いはないのだが、ラットは、恩義あるトムとの訣別に自責を覚える出来事を経ずとも、恩義あるキャリーの窮地を放置はできない青年だったような気がした。“今だけカネだけ自分だけ”の処世の対極にあるものが、本作の訴えていた“フェアネス”だろうという気がする。
by ヤマ

'21.12.11. BSプレミアム録画



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