『ライフ・イズ・ビューティフル』(La Vita E Bella)
監督 ロベルト・ベニーニ


 ただに面白く愉快な奴ではない。豊かなイマジネーションと溢れんばかりの愛情、そして柔軟でしなやかな勇気、ほかには何も使わずに、人は人に対して、得難い幸福感を与えたり、凄惨な狂気のもたらす恐怖から守ったりすることができるもので、人間にはそんな可能性と能力が確かにあるのかもしれないと思わせてくれる素晴らしい作品だった。

 全編二時間の映画のちょうど半分がナチスの収容所に連行される前のグイド(ロベルト・ベニーニ) とドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)の出会いと結婚にいたる顛末で、ユーモアと機知に満ちた楽しく愉快なエピソードの連続。グイドのユーモアと機知は単なる言葉遊びではなく実際の物やアクションを伴ったハプニングとして提示されるから、実に素敵で何とも得難い幸福感をもたらしてくれるのがよく判る。それによって、ドーラが旧知の地元の名士との婚約を反故にしてまでもグイドを選択することに説得力が備わり、運命的な出会いとか恋の激情とかによって了解する必要が観る側に全くないくらい、次第にドーラが幸福感に包まれていっていることが伝わってきた。女性の心を最も動かすものは、要するに幸福感であって、権力や財力でもたらし得る以上の幸福感をもたらすことができれば、誰だってドーラと同じ選択をするのだと思う。

 グイドが凄いのは、女性攻略という攻めの状況だけでなく、ナチスの収容所の狂気から家族を守るという受けの状況になり、何ともしようのない極限下におかれてしまっても絶望することなく、できるかぎりのことをするという姿勢を失わないところだ。それを支えているのは、家族に対する溢れんばかりの愛情であり、思いもつかない方法でそれを果たしていくのが豊かなイマジネーションと柔軟でしなやかな勇気だと思った。収容所でのグイドの表情は、息子ジョズエのいる時といない時とでくっきりと違う。猛烈にタフな精神力を要求され、消耗していることがよく判る。それでも、隙を見つけては収容所の拡声器で、懐かしの「僕のお姫さま」という呼び掛けで語りかけたり、思い出のオペラを屋外に向かって流したりすることで、別棟に隔離されているドーラに無事を伝え勇気づける。処刑される直前、ナチス兵士に銃を突きつけられながら歩くときでも、潜んでいるジョズエの目に触れるところでは、ゲームを演じている嘘を息子に貫き通すために、おどけた身振りの行進に動作を変える。総ては父親が自分のために貫き通してくれた嘘だったことを後で知ったとき、息子は何を思うのだろう。親が子に示し残してやれるものとして、これほど深く重いものがあるだろうかなどと思いつつ、人間は、愛する者の存在ということからこれほど強靭な精神力を得られるものかと不覚にも涙が流れた。こんなことが決してあり得ないとは思えないところが人間の凄さなのだ。独りだけでは決してなし得ないことだろうが、人と人との関係性としての愛は、時に、そこまで人間を素晴らしい存在に変える奇跡を起こし得るものだという気がする。父として夫として、確かにグイドの人生はこのうえなく美しかった。

 構成的には、収容所の部分に時間が偏る配分で編集されていなかったことが全体のバランスとして実に適切だった。前半で充分見知っているグイドだからこそ後半が生きてくるのであって、前半をはしょられていたら、これほどの感銘は受けなかったように思う。




参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/lavitaebella.htm
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/lacinemaindex.html#anchor000284
by ヤマ

'99. 7.11. あたご劇場



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