『星の子』
監督 大森立嗣

 僕自身は、特定の宗教に帰依する心を持ち合わせていないから、信仰を得た者に訪れる幸いも難儀も知らずに来ているけれども、基軸宗教ならまだしも、新興宗教となると、得られる生きやすさと生きづらさのバランスがとてもじゃないけれど取れないように思えて仕方がないのだが、本作の林ちひろ(芦田愛菜)の両親(永瀬正敏・原田知世)のように揺るぎない信者が少なからずいることは知っているし、そういう信仰者の悲喜こもごもを描いた映画は、これまでにも観たことがあるけれども、本作のような形での信仰者の親の元に生まれた子供の負った重荷を描いた作品は、塩田明彦監督・脚本によるカナリア['04]以外に、あまり観たことがないように感じた。

 とりわけ、ちひろの場合、両親の信仰に違和感を拭えずに家を出た姉(蒔田彩珠)と違って、独白の台詞にあったように「私が病気になったばっかりに…」との思いがあるわけだから、なおのこと、その負わされているものが重く苦しかろうという気がする。母方の雄三おじさん(大友康平)から高校進学を機に家を出て、通学にも便利なうちから通うよう勧められても、決然と断るのは、それもあってのことのように思えた。

 おじさん家族は、林家の暮らし向きがどう観ても、ちひろが生まれ、新興宗教に帰依するようになって悪化してきてる部分しか見えないから、彼らが信仰で得られているものが眼中に入らないのだろうけれども、ちひろはそうではないという事情もあるのだろう。だが、ちひろと同じく功罪ともに観てきている姉が、けっきょく家を捨てるしかなかったことについては、諸外国以上に、宗教に対する警戒心や不寛容が浸透しているように見受けられる日本の事情が大きく影響しているような気がしてならなかった。

 その典型が、岡田将生の演じていた、ちひろ憧れの南先生だったわけだが、彼が無自覚に放射していた信仰者蔑視に対して、「あいつ性格悪いよね。」と看破していたなべちゃん(新音)の備えていたスタンスが最も良識的なもののように思った。それと同時に、なべちゃんと付き合っているつもりの男の子(下村という名だったような気がするが、心許ない)が、南先生が観たものと同じ姿のちひろの両親を目撃して、その珍奇な儀式に対して率直に「河童かと思ったよ。だって緑のジャージ着て頭に白いタオルを皿みたいに乗せて、上から水を垂らしてるんだぜ」と言いながら、そこに何らの侮蔑もなく、単純に珍奇なものを目撃して驚いていただけであることを表白させて、南先生と対照していたことに感心した。馬鹿にしちゃいけない、などと意識していたら言えない台詞で、馬鹿にしていたら、決して表われてこない邪気のなさに痛撃を受けた。ちひろがなべちゃんに、私が結婚していい?婚約は?と言っていたのは、そういうことなのだろう。なかなかいい場面だったように思う。原作にも、この場面は、あったのだろうか。気になっている。





推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20102201/
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
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by ヤマ

'20.10.13. TOHOシネマズ7



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