第191回市民映画会
 『おしえて!ドクター・ルース』(Ask Dr. Ruth)
 『ベル・カント とらわれのアリア』(Bel Canto)
監督 ライアン・ホワイト
監督 ポール・ワイツ

 先ごろ八十七歳で亡くなったアメリカ最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグの名は知っていたけれども、ドクター・ルースのことは全く知らなかったので、思い掛けなくもドキュメンタリー映画だった『おしえて!ドクター・ルース』での、チラシに記された「90歳 現役セックス・セラピスト」というルース・K・ウエストハイマーの驚嘆すべき強運とウィットに富んだ明るさに大いに驚いた。

 1928年にドイツのフランクフルトに生まれ、家族のなかで唯一人スイスのハイデンに逃れてホロコーストを生き延び、戦後の新興国イスラエルで狙撃兵になり、最初の結婚をした後、夫の留学に伴ってフランスのソルボンヌで心理学を学び、留学中に帰国を選んだ夫と離婚して修学し、デキ婚による再婚をした夫を説き伏せてホロコースト賠償で得た金で渡米した後、またしても離婚してシングルマザーとなり、家政婦を務めながら大学院で学び、終生の伴侶となる三度目の結婚相手に巡り合っていた女性が、“米国で最も有名なセックス・セラピスト”として、大いなる成功を収めていた。

 転機だらけのルースが著名人となる契機を得た'80年代のアメリカが、本作で語られるように、女性が性を語ることがタブーで保守的であったというのは、主に映画作品を通じてアメリカ社会を感じ取っていた僕自身の同時代感からは、少々ズレがあるのだが、それは日本に生まれ育った僕だからそうなのであって、アメリカ人にとっては、現在からみれば、'80年代はまだまだ性的タブーが強く、とりわけ女性においては殊更にそうだったという感じなのだろう。

 あまりに数奇な経歴を持っているからだろうが、銃器マニア宅を訪問してルースが鮮やかな手つきで銃器の分解清掃などこなせる姿を見せたり、ホロコースト犠牲者の資料館で彼女の家族の記録を検証する場面も添え、もはや同時代の証言者がほとんど得られなくなっている彼女の人生の凄さを実証している作り手のスタイルが印象深かった。それにしても、凄い女性だ。

 対象がこれだけ数奇な人生を歩んできていれば、通常、ドキュメンタリー作家なら駆られて仕方がないはずの人物像への切込みを敢えて排除していると感じさせる表層的なスタイルが妙に不自然なくらいで、却って興味深く感じるところがあったように思う。観ていて「なぜ、切り込まない」というのは、誰しもが思うところではないだろうか。中途半端どころか、封じている感すらあったような気がする。そのうえで、ひたすらカメラが捉えようとしていたのは、実に、実に、よく笑う明るい彼女のキャラクターだったように思う。彼女の履歴や心象を掘り下げるのではなく、なぜラジオ番組のボランティアのパーソナリティから大化けできたのかを捉えようとしていた気がする。そして、作り手の観て取ったそれは、たぶん類稀なるキャラクターと強運だったのだろうと思った。

 それにしても、齢九十にして時代に即した新語を取り入れていこうとしているルースの進取の精神は見上げたものだ。字幕では「がまん汁」となっていたが、ドイツ訛りの英語で何と言っていたか聴き取れなかった。僕は彼女の三分の二ほどの歳でしかないのに、この集中力の衰えというのは、少々情けない話だと思った。


 続いて観た『ベル・カント』は、同じく市民映画会で昨年観た私は、マリア・カラスのようなオペラものかと思っていたら、とんでもなかったので、これまたすっかり驚いた。1996年のペルー日本大使公邸占拠事件に、なにゆえオペラ歌手の歌声を持ち込んだのか、原作小説も未読で不明なのだが、武器による殺傷の対極にあるものとして、言葉の壁を超え得る歌声なるものがもたらし、果たせることを象徴的に浮かび上がらせたかったのかもしれない。野蛮な武器との対照としての教養や技術、遊戯の美点がよく捉えられていたように思う。

 何も生み出さず破壊するだけの武器と殺戮とは違って、美しい歌唱も、美味い料理も、美しい言葉も、美しい気遣いも、限定的であったとしてもテロリスト集団と人質たちの間に交流という“奇跡的な創造”をもたらすことをしっかりと描いていた気がする。そして、それは断じてストックホルム症候群やリマ症候群などといったレッテルを貼ることで片付けられてはならない“文化と学習における人間存在の本質的な部分に関わること”すなわち「美しく生きる技術としてのベル・カント」だとの作り手の想いが、人質事件にベル・カントを持ち込ませたように感じられた。人間なればこそ、教養や技術、遊戯を身につけ、破壊ではなく創造を愉しむ生き方の必要というものが込められていたような気がする。

 折しも文化・芸術を不要不急などと言って蔑ろにする風潮が蔓延るようになってきたなか、そのような本作の持つ明快なメッセージが、占拠事件の迎えた最後の顛末たる惨劇とともに印象深く残った。武器を手に取る者よりも武器を手に取らせる者の悪のほうが遥かに罪深いということだと思う。

 テロリストを率いる元教師だというチェ・ゲバラを彷彿させるような風貌のリーダーが醸し出していた知性と、ソプラノ歌手ロクサーヌ・コス(ジュリアン・ムーア)の歌唱に魅せられて師事を願った朴訥な兵士の存在が、とりわけ効いていたように思う。それにしても、ロクサーヌからベッドに招かれていたホソカワ(渡辺謙)といい、向学心に富んだ女兵士カルメンから慕われていたゲン(加瀬亮)といい、これだけ“日本男児だけがモテる映画”を外国映画で観ることがあるとは思わなかった。原作小説でも、そういう運びだったのだろうか。
by ヤマ

'20. 9.24. 高知市文化プラザかるぽーと大ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>