『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(The Ballad Of Cable Hogue)['70]
監督 サム・ペキンパー


 今年の初映画は、かねてより気になっていた旧作となった。僕を旧作DVDの魔界に誘ってくれた先輩から託されたものだ。自主上映の活動に携わっていたときに、作品を出してもらっていた配給さんが本作の主人公の名を取って社名にまでしていることを知ったときに観た、野外入浴のカットにもそそられ、長らく気にかけていた映画だ。

 ある面、今の歳になって観られてよかったように思う。現実感からは少しずれた調子外れの可笑しみと、得も言われぬペーソスは、若い時分の僕には十分に甘受できなかったかもしれないような気がした。

 劇中、荒野の“ケイブルの泉”での商売が繁昌し始めた時分に、ケイブル・ホーグ(ジェイソン・ロバーズ)が、実にぞんざいな食器洗いをするためにテーブルに打ち付けた皿にゲテモノ料理を盛って出していたのだが、味は格別だったりしていたことが、まさしく本作の作りと味わいを象徴しているようで妙に可笑しかった。サム・ペキンパーの確信犯的隠喩だという気がしてならない。

 口の達者な女好きで「神が女に与えた一番のものは乳房だ。数と言い、位置と言い、理想的だ」などと零し、やたらと乳揉みに手が伸び、“イカサマ羊飼い”などと言われていた自称牧師のジョシュア(デヴィッド・ワーナー)から、どういう言葉を伝え聞いたのか、町を追われたとホーグを訪ねて来た娼婦のヒルディ(ステラ・スティーヴンス)が「今夜は一緒よ」と声を掛けて過ごし始めた三週間の蜜月が彼に残したものを思い遣り、ナターシャセブンの『私に人生と言えるものがあるなら 』という唄を思い出したりした。

 ホーグが「君もタダだった」などという言葉を発しなければ、ヒルディは、シスコ行きを断念して、そのまま彼の元に留まる人生を送ったのかと言えば、必ずしもそうとは思えないのだが、 ♪ butterfly mornings and wild flower afternoons ♪ とヒルディが歌っていた唄が、ホーグの歌う“明日の希望を歌う唄”よりも遥かに“ケイブル・ホーグのバラード”のような気がした。二三日のつもりだったと後に言っていた彼女が居付いてしまったことが無理なく伝わってくる“朝餉の支度をしながらの歌声と表情”が実に素敵だった。

 命を懸けて争った水のもたらした商売にしても儚いもので、時の流れの変遷のなかでは、総てがいつの間にやら新たなものに取って代わられていく定めの元にあり、思わぬ形で消えゆく人の命もまた同じであることを偲ばせていたように思う。「誰よりも人間臭く生きた」との生前弔辞を所縁の人たちに囲まれて聴き得たホーグの人生は、短くとも幸いだったのだろうと思うとともに、全てが“一炊の夢”ならぬ“砂漠での末期の夢”かとも後から思える、序盤での垂直俯瞰ショットが妙に効いてくる作品だった気がする。二十二年前に観た髪結いの亭主['90]の映画日誌にラスト・シーンで、それまでは登場人物と同じ高さの目線しか取らなかったカメラが床屋の天井から座っている二人の男を真下に見下ろすアングルに変わった。その時、真上から映し取られた小さな床屋の一室が何故か地球を表わしているように感じられた。と綴った場面のことを思い出した。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-1194.html
by ヤマ

'14. 1. 6. DVD観賞



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