『約束の土地』(Ziemia Obiecana)['75]
監督・脚本 アンジェイ・ワイダ

 今は無き高知名画座で、ニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』['80]との併映で、'82年7月に観て以来になる、三十八年ぶりの再見だ。前々世紀末のポーランドの工業都市で、工場主となる社会的野心を抱いた若者の物語だが、今現在の世相と大差ないというか、前世紀よりも今世紀のほうがこの作品に描かれた状況に近い気がして暗然となった。本作のポーランド士族の末裔カルロ・ボロヴェツキ(ダニエル・オルブリフスキ)たちのメンタリティと処世態度は、それくらい実に現代的な気がしてならなかった。

 そして先頃、ほぼ半世紀ぶりに再見した未来惑星ザルドス』['74]の映画日誌人々を支配するうえで必要なものが宗教と武器による分断であることを示したオープニング・イメージの強烈さは、半世紀近くを経て、…今むしろ顕著に感じられるようになっている…それは、反知性主義が蔓延するようになった21世紀の現在のほうが、前世紀よりも人知が退行しているように日々実感しているからなのかと記したことを想起した。

 親世代の資本家の経営を合理性と効率性から時代遅れの旧態だと否定し、非正規ルートから手に入れたインサイダー情報によるアンフェアな相場取引で大金を掴もうとし、血気盛んな若者らしく傍若無人で強引な事業推進手法がプライヴェート領域にも及ぶに至って、思わぬ形で足下を掬われ、水泡に帰す顛末を観ながら、今世紀のIT長者の奢りと転落を想起した。しかも、しぶとくちゃっかり復権しているところまで今様そっくりであることが、暗然たる想いをとりわけ誘ってきたようなところがある。当時の繊維業の工場労働者が、今のICT業界のプログラマーやコールセンターのオペレーターたちと被って映ってきた。マニュアルに従って従業する彼らの人海戦術で挙がった利益を、起業家と称する者たちが搾取する構図に見えてきて仕方がなかった。

 労働規制の“緩和という名の破壊”によって莫大な役員報酬や配当利益を手にする経営陣や投資家の出現は、十九世紀の資本主義の復権以外の何ものでもない気がしてならない。わずかに違っているのは、実体としての“モノ”が、金融や情報などの無体物に替わっていることだけのように思う。

 三十八年前に観たときは、十九世紀末を描いた本作が、よもや近未来を描いているとは夢にも思わなかったが、SF的な近未来ものではなく、歴史劇において、そのような感じを誘われたことが、実に印象深かった。
by ヤマ

'20. 7.19. BS2録画



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