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『オリンピア』(Olympia)['38] | |||||
監督・脚本 レニ・リーフェンシュタール
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第一部「民族の祭典」(Fest der Völker)、第二部「美の祭典」(Fest der Schönheit)からなる本作は、かねてより観たかったドキュメンタリー映画だが、'95年に県立美術館が『芸術の危機 -ヒトラーと退廃美術-』展の関連企画として、本作を撮ったレニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリー映画『レニ』['93]ほか2本の映画に『権力と芸術 -ナチ政権下に生きた芸術家の記録-』と冠して上映したときにも、'04年に彼女の100歳での新作ドキュメンタリー『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』['02]と併せて『レニ』を撮ったレイ・ミュラー監督が当時のレニを撮った『アフリカへの想い』['00]を上映したときにも、上映されないままだったので、もうスクリーンで観賞することは叶わないかもしれないと思っていたのだが、思い掛けなく観ることができて、大いに嬉しかった。 午前に観た第一部では、序章として、パルテノン神殿をはじめとする古代遺跡にギリシャ彫刻をオーバーラップさせる映像を延々と続けたうえで円盤投げをする彫像にぴったりとシンクロした人物が円盤を投げる映像によって、'36年のベルリン・オリンピックでの円盤投げ競技から始まるスポーツの祭典が映し出され、「成程、だから『西洋近代美術にみる 神話の世界』展の関連企画だったのか」と得心した。午後に観た第二部の終章として、水泳の高飛び込みで宙に舞う選手の姿をさまざまなバリエーションで映し出し、落下ではなく恰も飛翔するようなイメージで繰り返したうえに、第一部の序章で印象深く映し出されていた“聖火の炎に炙られる太陽”に呼応する“穏やかに燃える聖火の背後で昇り立つ数多の直光”が映し出された。 この序章と終章によって示されていたのは、ベルリン・オリンピックは、アスリートたちの完璧な肉体に重ねてオリンポスの神々がベルリンの地に降臨して繰り広げる祭典であり、祭典が終われば、天上のオリンポスに神々たちが飛翔し帰っていくというものだったような気がする。そして、古代ギリシアの人々が神々を彫像として残したように、レニはベルリン・オリンピックを映画『オリンピア』という彫像として製作しようとしたのだろう。二十五年前に観た『レニ』で、監督からナチスとの関わりについて問われたとき、当時のことは話したくないとしながら、気丈にも「政治的野心も関与もなかった。純粋に芸術的意欲から関わっただけで疚しくはない。自分は不幸に見舞われたに過ぎない。」と答えていたとおりの作品だったことが確認できて感銘を受けた。 それと同時に、第一部でも第二部でも流されていたエンドロールに、日本のフィルムセンターの岡島氏やとちぎ氏の名前ほか世界各国のフィルム・アーカイヴの学芸員の名前がクレジットされていたり、「70」の文字が見えたことから、70周年記念のレストア版のように見受けられた本作において、オリジナルフィルムから割愛されている部分があるのかもしれないとの疑念が湧いた。本作は『意志の勝利』ともども、ナチスドイツのプロパガンダ映画だとされているように聞いていたのに、驚くほど政治性が希薄だったからだ。実況的な補足を加える以外のナレーションは一切なく、音楽が添えられているのみで、ヒトラーの肉声も開会宣言だけで演説場面など一切なかった。だが、もし政治性を排除することで映像作家としてのレニの再評価を促すような、或いは、それこそ政治的配慮によって政治性を排するような、何らかの再編集意図の働いているバージョンなのだとしたら、公共上映として美術館が提供するのであれば、単に上映するだけではなく、きちんと説明が付されるべきだと思う。しかし、'95年の上映会で配布されたような鑑賞資料どころか、何らの説明もなく、疑念が残ったのみになったのが不満だった。 第一部「民族の祭典」は、陸上競技に絞った編集がされていて、当時から、オリンピックの原点であり、華は、何と言っても陸上競技なのだなと改めて思わせてくれた。特にドイツが活躍した競技に焦点を当てているわけではなく、序章を受ける形で最初に披露された競技の男子円盤投げで金メダルを取ったのはアメリカだったように思う。続いて、やり投げ、ハンマー投げ、100m走、800m走、10000m走、110mハードル、三段跳、走幅跳、棒高跳、マラソンと出てきたような気がするが、印象に残った選手は、僕が同時代で知っているカール・ルイスを彷彿させるジェシー・オーエンス(アメリカ)だったり、三段跳びの原田(日本)やマラソンの孫基禎(日本)といった金メダリストであって、ドイツ選手の影は薄かった。女子4x100mリレーだったと思うが、当時世界記録保持者だったドイツチームがバトンを落としてしまったのを膝を打って残念がるヒトラーの姿も映し出していて、国威高揚プロパガンダ映画との観方は相当しないような気がしてならなかった。 第二部「美の祭典」では、陸上競技以外が取り上げられ、最初に現れた体操競技が屋外競技だったことに驚いた。現代競技が進化しているのは間違いないにしても、どの競技においても当時からそれなりに高い水準にあることが新鮮だったなかで、跳馬の素っ気無さには思わず笑ってしまった。また、クラブを握った新体操もどきのマスゲームが披露されていたのが目を惹いた。続いて、ボート、ヨット、フェンシング、ボクシング、近代五種、ホッケー、クリケット、サッカー、馬術、カヌー、十種競技、競泳、飛込と映し出されていたように思うが、ドイツ選手で印象に残ったのは、近代五種の金メダリストになったハンドリックくらいで、それとても十種競技の金メダリストになったグレン・モリス(アメリカ)の扱いに比べると控えめだったように思う。ベルリン大会で最多金メダルを獲得したのは、紛れもなく開催国ドイツだったはずなのに、これでは到底、国威高揚プロパガンダ映画だとは言えないように思った。単にヒトラーの庇護を受けていたレニの撮った作品ということで“ナチスドイツのプロパガンダ映画”というレッテルが貼られたのかもしれない。ところで、近代五種で馬術に続いて映し出された射撃で的が人型になっていることに驚いた。今でもそうなのだろうか。 それにしても、八十余年も前の映画なのに、カメラワークがいささかも古びていないことにすっかり驚いた。古色を帯びていないがゆえに却ってある種、観慣れたような倦みを覚えるほどに現代的とも言えるし、スポーツ競技の進歩ほどにスポーツ撮影は進歩していないように感じた。何しろ、水中撮影のみならず、とても本番競技中に撮影したとは思えないダイナミックな画像が頻出するのだ。レニ・リーフェンシュタールが記録映像を撮ろうとしたのではないことが明らかだった。だからこそ、前述した「レニはベルリン・オリンピックを映画『オリンピア』という彫像として製作しようとしたのだろう」との想いを単に序章と終章からの暗示だけではないものとして、実感させてくれたのだと思う。 | |||||
by ヤマ '20. 6.14. 美術館ホール | |||||
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