『おじいちゃんの里帰り』(Almanya – Willkommen in Deutschland)['11]
監督・脚本 ヤセミン・サムデレリ

 ドイツのみならず広くEUに排外主義が蔓延ってきている時代に、移民労働者家族を描いた「ようこそ、ドイツに」と題する映画ができているのかと感銘を受けつつ、最後にメルケル首相が登場する場面に心打たれたのだが、エンドロールを眺めていたら、九年も前の '11年作品だった。メルケルは首相在職何年になるのだろうと思うと同時に、いま上映することの意義を感じた。

 思えば、日独二国は奇跡の戦後復興を果たして経済大国になった国同士だから、同じような高度成長期を経てきているのだろう。そのドイツの高度経済成長を支えたのが、「ゲスト労働者」と呼ばれる移民労働力だったようで、とりわけトルコ移民は、入国時こそ南欧移民よりも差別を受けたようだが、その後の貢献が認められたらしい。一緒にスピーチ練習をしていたから記憶しているということで幼い孫息子のチェンク(ラファエル・コスーリス)が、祖父に代わってゲスト労働者100万+1人目の帰化ドイツ人として、入国45年後の想いを首相の前で演説する機会を得るのは、そういうことなのだろう。日本政府の外国人労働者に対する向かい方との違いの大きさに愕然とした。

 だが、そういう処遇を彼らが得るに至るまでの道程には苦難の日々があったことは、フセインが帰化申請時に夢見た苦痛の場面のみならず、日本へ朝鮮半島から訪れた在日1世の人たちを描いた作品などを想起するまでもなく、容易に察することができるけれども、大学進学で東京に出た四年間の他には生まれ育った土地から離れず、殆ど引っ越しさえもしたことのない僕には、とても想いの及ばないところだ。確か2521kmと言っていたように思うが、イスタンブールと違ってトルコのなかでも東方に外れた、車で走って三日三晩かかるほど離れた故郷アナトリアに突如、家族全員を連れて、帰ろうと言い出した老爺フセイン(ヴェダット・エリンチン)の意図が何だったのかが、次第に沁みてくる、なかなか好い作品だったように思う。

 夫に先立たれた祖母ファトマ(リライ・ハサー)が「ドイツに帰化したけれど、フセインの心は誰よりもトルコ人だった」と訴えても1万ユーロもの袖の下に応じなければトルコ人墓地には埋葬してもらえないことに憤り、故郷の村での埋葬を決意する。違法埋葬になると反対した子供や孫の賛同を取り付けて敢行し、今さら移住するつもりはないが、別荘にと思って買ったと夫が言い残していた、入り口のドアしか残っていない住居跡で、葬儀を手伝ってくれた村人たちを招いてささやかな宴を催している場面に心打たれた。

 祖父フセインの姿が見えなくなって何処へ行ったか訊ねる息子チェンクに自分と息子の胸に手を当て、「ここにいる、普段は液体の水が温度によって姿形を変えても水であり続けるように、ここにいる。」と説くドイツで生まれた三男アリの姿や、そりが合わなくなっていた長男ヴェリと次男モハメドが遠い日の幼い時分と同じ形態で小さなベッドで共寝する姿、職もなくし失意にあったモハメドが生きる目標を見い出す姿に、「全員で行かなければ意味がないんだ」と娘レイラの一人娘チェナンに同行を求めたフセインが何を思って企てたのかが、とてもよく現れていた気がする。

 若い頃のフセイン(ファーリ・オーゲン・ヤルディム)には、家族への想いと共に馬力や気概はあっても、老いてなお見せていた強引さの陰にある懐の深さのようなものはなく、勢いに任せた我武者羅さが、ファトマとの結婚にまつわるエピソードにも端的に表れていた気がする。だが、孫娘チェナン自身も想定外だった妊娠に誰よりも早く気づいて、驚き、やや呆れつつも、核心を外さない見事な受容と助言を果たせる年季は、その年嵩に見合った苦労と実績を「ゲスト労働者」として積み上げるなかで培ってきたものに違いない。歳を重ねるということは、そういうことでありたいものだ。妻や孫娘の妊娠を誰よりも早く察知するフセインは、おそらく自らの死期が迫っていることを感知していたに違いない。

 若いころから僕は、家族主義を謳い上げるファミリー映画を苦手としてきたが、自分の生まれた時点で父方も母方も既に祖父が亡くなっていて、祖父を知らない僕でも、さすがに自分が孫を六人も持つ身になると、ちょっと心持ちが変わってきたようだ。フセイン一家の人々の国籍や家族構成によって培われるアイデンティティなるものに、ついつい寄り添い、想いを馳せさせられる映画だったような気がする。「僕はドイツ人チーム、トルコ人チーム、どっちに入ればいいの?」と母親のガビに零していた孫息子のチェンクが、教室に貼り出してあるドイツの地図に、持参したイスタンブールから先のトルコの地図を貼り足すよう先生に求め、アナトリアを出身地として明示する姿に「天晴れ、フセイン!」と快哉を挙げた。

 ドイツ生まれで現地の食材や香辛料によるトルコ料理を食べたことがなかったと思しきアリが、見た目と違って美味なる料理に舌鼓を打った後、腹を下す場面に窺えるような細部におけるリアリティが、語り口や展開の備えているファンタジックな温もりや可笑しさを空疎にしない裏打ちになっていて、なかなか見事だった。大したものだ。
by ヤマ

'20. 6.24. 美術館ホール



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