第190回市民映画会
 『誰もがそれを知っている』(Everybody Knows)
 『あなたの名前を呼べたなら』(Sir)
監督・脚本 アスガー・ファルハディ
監督・脚本 ロヘナ・ゲラ

 イラン人監督作とは思えない欧州映画と、マサラムービー的な歌も踊りも出てこないインド映画という意表を衝く二本立てだが、どちらともラストシーンが意味深長で、想像力を刺激され、なかなか面白く観た。

 先に観た『あなたの名前を呼べたなら』では、繰り返し求められても呼べなかった“旦那様(Sir)”の名前を呼ぶことのできたメイドのラトナ(ティロタマ・ショーム)のこれからは、裕福なアシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)と共にアメリカに向かうのか、彼の計らいで可能性の開かれたムンバイでの暮らしになるのか、で言えば、やはり後者ということになるのだろうから、より想像力を掻き立てられるのは、アスガー・ファルハディーの作品だと思う。

 後から観た『誰もがそれを知っている』のラストで、妻マリアナから娘のロシオの不審を質されたと思しきフェルナンドの夫婦関係は、愛妻ベアに去られたパコ(ハビエル・バルデム)のようにはならないものの、これまでのようにはいかないような気がしてならなかった。映画の冒頭で印象づけられていた仲睦まじさが壊れ去ったパコ夫婦が気の毒だったが、そうならざるを得ない運びだったように思う。そして、パコに訪れる衰弱は、白髪に留まらないことが暗示されていた気がする。身代金を犯人に渡すことが救出に繋がらずとも、カネを惜しんで殺されてしまったら一生自分を許せなくなるとの彼の言葉には真実が宿っているのだが、パコとの間に子供ができなかったことも手伝って、ベアにはそれが父娘としての関わりなど十六年間一度も持ったことのないイレーネへの想いというよりは、彼女の母親であるかつての恋人ラウラ(ペネロペ・クルス)への想いだと映るのが無理もないところが切ない。

 イレーネ誘拐の黒幕は誰だったのかを思うと、僕はフェルナンドなのではないかという気がした。作り手が敢えてラストショットに彼を映し出していたのは、そういうことだったのではなかろうか。酒と博奕で家勢を衰退させた老アントニオの遺恨をフェルナンドは、長女マリアナの娘婿たる家長として継承していて、一人娘ロシオの苦境を救うための苦肉の策に、妻には内緒でロシオの夫を唆したのではなかろうか。実行犯の相方である男のベアへのメールの件すら知らない迂闊な彼に主犯の力量は、とうてい窺えないように描かれていたことに加え、風評流しも含めてパコを追い込む状況づくりに最も加担していたのがフェルナンドだったような気がしたからだ。もしかすると、若き日のラウラとパコの関係に強い嫉妬を抱いていたのは、かつてのフェルナンドだったのかもしれない。

 アスガー・ファルハディの作品は、これまでに『別離』『ある過去の行方』『セールスマン』と観てきているが、いずれもがそうであったように、映画に描かれている部分よりも描かれていない部分に対する想いが刺激される。本作については、これまでの彼の作品とは異なる趣向のものと見る向きも多いようだが、僕にとっては、やはり彼らしい作品だという気がしてならなかった。登場人物たちの心の動きや揺れを描き出すことにとても長けているように思う。最も大きな落差を味わうことになったベアとパコが哀れだった。

 それにつけても、人々の関係を拗らせ、事件を引き起こす元になっているものが、先に観たインド映画では、旦那様とメイドの未亡人、続いて観たスペインを舞台にした映画では、地主と小作人という身分的な格差にあることを思うと、人間社会の根源的な罪は何をさて置いても、このことに他ならない気がしてくる。




◎『誰もがそれを知っている』追記('20. 2.20.)
 拙日誌を読んでくれた映友から、メールをいただいた。読んだ当初は、なるほどと感心したものの、いろいろ疑問点が湧いてきて、やはりフェルナンドが黒幕とまでは考えられないとのことだった。「誰もがそれを知っている」というテーマが本当に意味深長だとの言葉とともに、フェルナンド黒幕説に立った際に彼の感じる不審点を伝えてくれた。

 もちろん作品観賞は、正解がどうというものではないから、それぞれが納得感のある解釈をすればいいことだし、本作においてはそのことも含めて、『誰もがそれを知っている』とのタイトルが意味深長であるのは、映友ご指摘の通りだと僕も思った。ただ、フェルナンド黒幕説に立つ自分としては、そうした際の不審点としてせっかく映友が挙げてくれたことへの“解答ではなく、回答”はしておきたいと思って返したら、随分と感心してくれたので、追記しておくことにした。

 映友が挙げてくれた不審点は、以下の4点。
①友人の元警察官を紹介したことの説明(意味)がつかない。
②新聞の切り抜きをする時に手袋をするほど慎重な犯人が
③パコの妻ベアにも勝手なメールを送るような馬鹿な相棒を選ぶだろうか?
④犯人探しを全くしないで、早々に帰国するラウラ一家もおかしい


 ①については、まさに映友が「元警察官が推察したように、警察が介入すれば犯人はすぐ判るレベル」と言及していたように、あくまで警察介入を防ぐための手立てとして講じたことだろうから、いわば目論見通り奏功していたことで、説明がつくように思う。

 ②は、冒頭シーンだったように思うが、手袋をした手しか映らなかった人物は、実行犯であるロシオの夫かもしれないし、黒幕自身だったのかもしれないけれど、僕は後者の可能性が高いと観ている。もしロシオの夫だったとしたら、指紋を残さないよう彼が手袋をしたのは、黒幕の指示によるものだと解している。

 ③については、ロシオの夫が知らなかっただけで、相棒にメールを送るよう指示したのは黒幕だと僕は思っている。というか、相棒の最も重要な役割がそれだったと観ている。そして、ロシオの夫の窮状につけ込むようにして犯行に誘い込んだことはロシオには絶対に知られないよう、彼に口封じをしていたと思う。ベアへのメールをなぜロシオの夫に指示しなかったかは、なるだけベアから縁遠い人物からの送信にしておかないと、何かの拍子に送信者がロシオの夫だとベアにバレたらまずいからだ。例えば、ベアがラウラにメールを見せるなどした場合に、ラウラに憧れている姪の夫のメアドをラウラが知っていたらまずいわけで、黒幕がフェルナンドであれば尚更にそんなリスクは取らないはずだ。
 それは、ベアにメールを送ることが、黒幕にとっては非常に重要なもので、言わば、今回の犯行のイチバンの目的が“パコを追い込み、農園を手放させること”にあったからだと、僕は解している。実際、映画では、その目論見通りになっていた。
 実は今回、僕がフェルナンド黒幕説に立つことになった一番の理由が、このベアへの犯人一味からのメールだった。なぜ犯人はベアにメールをしたのか、ベアへのメールが果たした役割は何だったのか、それを思うと、今回の犯行目的とは、パコを破滅させることに他ならないと思ったのだった。映画日誌にもしかすると、若き日のラウラとパコの関係に強い嫉妬を抱いていたのは、かつてのフェルナンドだったのかもしれないと綴ったのもそれゆえだ。

 ④については、ラウラ一家は捜査機関じゃないし、身銭を失ったわけでもないから、娘のイレーネが帰ってくれば、一刻も早く家に帰るのがむしろ当然で、逆に居残って犯人探しに執着するようでは却って不自然な気がする。観客や村人などと違って、犯人探しなどに興味はないはずだ。

 そのように推理してみて、ますますタイトルが味わい深くなった。誰もが知っていることが何で、誰もが知っていると思っていながら知らないことが何で、誰も知らないと思っているけど誰もが知っていることが何で、誰もが知っているけれど知らないことにしていることが何なのか。そして、今回の顛末が僕の想像したとおりのことだったとすれば、誰がどのように「それ」を知ることになるのか。改めて、アスガー・ファルハディ作品の真骨頂を感じさせてくれる映画だったという気がしてきた。
by ヤマ

'20. 1.17. 高知市文化プラザかるぽーと大ホール



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