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『セールスマン』(Forushande) | |||||
監督 アスガー・ファルハディ
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さすが『別離』のファルハディ作品だ。実に想像力を刺激して止まない。『別離』の映画日誌に「最後の場面の離婚法廷で「もう決めています」と繰り返し答えていた一人娘テルメー(サリナ・ファルハディ)の選択について、僕は、父ナデルでも母シミンでもない第三の道に違いないという受け止め方をした」と記したことに擬えて記せば、「最後の場面で『セールスマンの死』を演じていたエテサミ夫妻の選択について、僕は、婚姻生活の破綻は期していないに違いないという受け止め方をした」となる。 夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)に「彼の家族に話したら私たち(の関係)はお終いよ」と釘を刺していたラナ(タラネ・アリドゥスティ)の意思は「復讐なんか止めて」ということだろうから、その言葉どおり家族に話したりはしなかったにしても、妻への暴行犯を追い詰め、図らずも危篤(そして恐らくは「行商人の死」)に追いやったのだから、結果的に復讐を果たしたことにはなるわけだ。 被害を受けた当事者以外の者が制裁や復讐を口にする場合、被害者のためではなく自身の欲求であることが通例だから、被害を受けた妻へのケアよりも制裁や復讐に気が向いている様子は、二度目のレイプにも相当しかねないほどにラナを傷つけることになるのだろうが、エマッドにはそれに気づくだけの余裕はないわけだ。エマッドの場合、妻の不用意を責め立てないだけまだしもだったが、翌日、仕事に向かおうとしていることにラナが深い失望感を滲ませていた。 エマッドが忌わしいトラックを手元に置いておこうとすることに対しても辛そうだったが、時間の経過とともに自分が乗って移動させることができるくらいにラナは持ち直してもいて、その経過があってこその「彼の家族に話したら私たち(の関係)はお終いよ」だったのだと思う。早々に犯人が見つかっていたら、ラナとても、そうは言えなかったに違いない。そのあたりの時間の経過と各人の心の在り様の変化をセンシティヴに映し出していて非常に納得感があった。流石と言う他ない。 だから、エマッドが妻の忠告を容れて家族に話すことを思い止まったうえに、思い掛けない暴行犯の危篤発作という事態に見せていた狼狽と気落ちに対して、ラナは、それまで夫に明かしていなかったことを告げることになったのではなかろうか。 彼女が負っていた傷害は暴行犯から受けたものではなくて自傷だったような気がしてならない。性的暴行を受けたのは間違いないけれども、彼女には自分の落ち度への悔いが強く窺えたし、暴行犯の様子からも性的暴走は自制できずとも傷害まで負わせたようには思えず、エマッドが暴行犯に「妻の顔をガラスに打ちつけ…」と言っていた部分は、思わぬ暴行を受けて怒りと悔いと絶望に囚われたラナが発作的に自分で行った行為で、その物音と流血に驚いて暴行犯が慌てて逃走したというのが事の顛末だったように思う。 ラナが警察沙汰にしたくないと言い、犯人を突き止めた夫に対し、呼び寄せた家族の前で晒しものにする復讐を行なうことに反対したのには、そういった事情が加味されていたように思えて仕方がなかった。 また暴行犯にしても、ラナがいかにも舞台映えしそうな女優だけあって実に魅力的だったから、最初はむしろ誘われているくらいの反応だったものが、態度を急変させて激烈な拒絶と抵抗に出られて驚愕するとともに、衝動を抑えられない以上に、完遂して大人しくさせようと焦ったのではなかろうか。そして、事が終わって怒りと悔いと絶望に囚われたラナが打ちひしがれている姿を観て、自責の念に駆られ、破格の大金を棚に残していたのだろう。そうしたら、突然の激しい物音がバスルームから聞こえて行ってみると流血の惨事を目の当たりにし、怖くなって逃げ出したのだという気がする。単純に精力旺盛が余っての犯行ではないように思える人物像だった。 いずれにしても、復讐が果たされることによって救われたり気が晴れたりするものではないことを本作が明確に描いているところに、作り手の見識を感じ、大いなる共感を覚えた。制裁や復讐を口にする当事者以外の者が事の顛末の仔細を承知していることなど、決してあるものではないというわけだ。 それにしても、かのイランでアメリカ人劇作家の演劇公演が本当に行われているのだろうか。もし行われているとして、そのことに対する風当たりや嫌がらせは何も起こらないのだろうか。その部分を映画では描かなかっただけなのだろうか。現在のイランで、アメリカというものがどのような位置にあるのか、大いに気になる一石を投じられたような気になる映画だった。実に大したものだ。 | |||||
by ヤマ '17.11.17. 美術館ホール | |||||
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