『シークレット・スーパースター』(Secret Superstar)
監督 アドヴェイト・チャンダン

 チラシに記された惹句は「私には、歌がある。」だったが、エンドクレジットで「母と母性に捧げる」と示されていたように、まるで「私には、母がいる。」という作品で、女子中学生インシア(ザイラー・ワシーム)がブルカ姿で“シークレット・スーパースター”というアカウント名にしてYouTubeに動画アップをした確か2曲目だったように思われる歌が、気に入った。

 些細なことで不機嫌になって激し、好意を寄せてくれる同級生のチンタンに八つ当たりするインシアの気質は、チラシに“封建的なDV父親”と記されたファルーク譲りに違いないが、幸いにも母親ナズマ(メヘル・ヴィジュ)から受け継いだと思しき音楽の才により、横暴な父親の元から脱出できるわけだが、そういう物語的な事々よりも強く印象に残ったのは、横暴極まりない父親が、妻ナズマの金のネックレスをきちんと買い戻していたことと、ナズマが文盲だったことだ。

 ナズマが夫に無断でネックレスを売った金でインシアに買い与えたパソコンは、投げ捨てさせられて壊れたのだから、買い戻した金はファルークが出しているはずだ。劇中では、本当にどうしようもない横暴家長のファルークなのだが、彼の育った家庭文化からすれば、彼の有り様は常軌を逸しているようなことではないのかもしれない。彼の家にいた老婆は字幕では「大おば様」となっていたように思うから、実の母でもない縁者を扶養していたようだし、その大おば様の弁からしても、酷いのはファルークというよりもムスリムの男尊女卑の家長文化だと言っている作品のような気がした。

 息子のグッドゥが心優しかったように、幼い時のファルークも心優しい少年だったのが、男の沽券や家長の権威に囚われる家庭文化のなかに育って今のファルークになったことを描いているように感じたわけだ。もしインシアが女の子ではなく、男の子としてマリク家に生まれていたら、長じたときには父親以上に横暴な男になっていたのかもしれない。またナズマが、夫の嘆くような無学ではなくインシアのようにきちんと教育を受けていれば、ひとたびは娘に諦念を抱かせるような臆病さと自信の無さに囚われることはなかったのではないかと、彼女に窺える資質から感じた。そんなところから、ファルークとナズマ以前の世代において最も欠けていたものを描き出している作品だと思った。

 それにしても、チンタンは、いい奴だった。心優しく辛抱強く、後は任せろとの漢気もあって、惚れた弱み以上のものだった。パスワードは?と訊ねてインシアが掌に書いてくれた文字を観たときの笑顔が実にキュートだった。また、インシアを世に出した万年ノミネート止まりの作曲家兼プロデューサーだったシャクティ(アーミル・カーン)が、彼女との出会いによって一皮むける話になっているところが好もしかった。アーミル・カーンは、登場開始から悪態をついて顰蹙を買う役処を負った後の旨味を存分に味わっていたように思うが、ベタな映画のようでいて、実に志のある見事な作品を製作していたように思う。夢というのは、各人が心に強く抱いて願い憧れるものだけではなく、人の生には、どこでどういう出会いが待っているか知れなく、何で開けるかもわからない可能性があり得るということなのかもしれない。

 開始早々から、安っぽいデジタル画面の薄っぺらさが気になっていたが、物語が進んで行くに従ってあまり気にならなくなった。それは、本作の牽引力の賜物だと思う一方で、映画としては少々残念なことだと思わずにいられなかった。画面が良ければ、A級作品なのに惜しい出来栄えだ。
by ヤマ

'20. 1.18. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>