『別離』(Nader And Simin, A Separation)
監督 アスガー・ファルハディ


 人間が人間であるが故に、近しければ近しいほどに、和解や問題解決が困難であることの根っこにあるのは、やはり“我執”なのだと改めて思った。とりわけイスラムの人たちの“実利より面子”の誇り高さというものについては、これまでに観て来た映画作品を通じて知らないではなかったが、英題にあるナデル(ペイマン・モアディ)の妻シミン(レイラ・ハタミ)のような自己主張の強い女性像をイスラム作品で観るのはこれまでになかったことで、イランの事情も随分と急進的に変化してきているようだ。

 最後の場面の離婚法廷で「もう決めています」と繰り返し答えていた一人娘テルメー(サリナ・ファルハディ)の選択について、僕は、父ナデルでも母シミンでもない第三の道に違いないという受け止め方をしたが、それは、娘の彼女からすれば、父にも母にも歩み寄りの機会がありながら、二人ともが我執に囚われて「娘のため」を口にしながらも、一向に自分の願いを考慮してくれず、二人とも離婚回避に向けての歩み寄りは一向にしようとしなかったからだ。母親は、自分が付いて出なければ家に置き遺していくことを辞さないし、父親は、あくまで娘自身の選択という形にしてツライ偽証をさせるし、どちらの側にも与するわけにはいかない身の置き所のなさに追いやられているような気がした。そして、そういう状況になったからといって、止む無くどちらかにつく不本意に流されない靭さと賢さが彼女にはあるような気がした。それは、父親の言動や母親の思惑などを注意深く冷静に観察し、結果予測による計算よりも事実をしっかり見極めようとする態度に窺える彼女の意志の強さと聡明さから僕の受け止めたことだったような気がする。

 ナデルの狡さが堪え、ホジェット(シャハブ・ホセイニ)の情けなさが苦しく、シミンの強引が気に触り、ラジエー(サレー・バヤト)のもどかしさに苛立った。二人の女性のパーソナリティが足して二で割ったものだったら、おそらくナデル夫婦間の問題も、ホジェットとの諍いも回避できていたような気がしてならず、ひたすらテルメーが可哀想だったが、子供の領分を越えていて切なかった。

 詳しくは知らないものの、イランの国際社会における位置はかなり厳しいところにあるようなのだが、それに伴い、国内における意見対立も相当に根深いものがあるのだろう。いずれがナデルでシミンなのか、また、彼らと敵対するに至るラジエー家族に相当する社会勢力が何であるのか、僕には想像もつかないけれども、本作が訴えていることのなかには、テルメーの苦悩は単に家族の物語としてのものではなくて、社会的な投影があるような気がしてならなかった。そして、テルメーの冷静さと聡明さに人々が目覚める必要があるというのが、作り手の立ち位置だという気がした。

 この人間観察と人物造形の確かさと、パーソナルな人間関係を描きつつも社会や世界を射程に取り込んでいるスケール感には、イランのイ・チャンドンと呼びたくなるようなものがあったように思う。そんな作り手と出会い、感銘を受けた。大したものだ。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20120419
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
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推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/12072701/
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1913837279&owner_id=1471688
by ヤマ

'12. 7.11. 美術館ホール



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