『花芯』['16]
『海を感じる時』['14]
監督 安藤尋

 先に観た『花芯』は、原作の瀬戸内寂聴が、かつて“子宮作家”との異名を取り物議を醸した、自分自身に材を得た小説の映画化作品だ。原作小説は未読ながら、その名はかねてより知っていたものの、内容的には何も承知していないので、本作が原作に忠実なのか潤色が著しいのか定かではないのだけれども、かなり忠実に描いているのではないかという気がした。

 興味深かったのは、主人公の園子(村川絵梨)よりも、夫の雨宮(林遣都)の人物像のほうだった。その関心から言えば、あまり描かれてはいなかったことが残念だったが、描出の不足している分を林遣都がよく補っていたように思う。また、女性像としても、園子より興味深いのは妹の蓉子(藤本泉)だったような気がする。実に奇妙な姉妹関係だった。

 園子については、奔放な女性というイメージはまるでなく、それよりも「何とも“情の強(こわ)い女性”だな」という印象だった。いちおう主題的には「自由恋愛」だったような気がするけれども、あまり深みは感じられなかった。園子が恋する夫の上司である越智(安藤政信)の人物像がぼんやりしてたのが残念だ。

 その後、同じ監督による『海を感じる時』を観た。中沢けいが群像新人賞を受賞した原作小説を読んだのは高校の文芸部にいた時分だと思ったのだが、'78年の作品だったから僕は二十歳で、大学の文芸サークルの幹事長をしていた時のものだ。

 今でこそ、十代での文学賞受賞は珍しくもなんともなくなっているが、当時は一大事件だった覚えがある。とはいえ、四十年前に読んだきりで、ろくすっぽ物語も覚えていなかったのだが、二か月余り前に観たばかりの愛がなんだを想起させる映画を観ているうちに、何となく呼び起こされるものがあった。熊が見たいと言いながら動物園で象を観る場面から始まったことが作用したのかもしれない。

 とりわけ『愛がなんだ』のアラサーシングル山田テルコ(岸井ゆきの)の小さな駆け引きを孕んだ流され感と、本作の十代の中沢恵美子(市川由衣)の些かの駆け引きもない確信的なまでの挑み方の対照が興味深かったとともに、アラサーマモちゃん(成田凌)と新聞部の二年先輩の高野洋(池松壮亮)の対照と相同点も面白かった。マモちゃんも洋も女性たちからいかにも顰蹙を買いそうなのだが、あの年頃で女体の威力の前に太刀打ちできないのは、致し方ないことのような気がして仕方がなかった。そのうえで、狡さや駆け引きを感じさせない率直さが二人に共通していたように思う。

 恵美子の苦衷よりも洋の困惑ぶりを愉しみながら観ていたのだが、終盤になって、間延びしたような感じとともに原作の『海を感じる時』はこういう話だったろうかとの違和感が次第に湧いてきた。観終えてから、書棚にある四十年前に買った原作小説を開いてみると、案の定、高校卒業後の恵美子の話は原作にはなかった。桟橋の先に座り込んだ母(中村久美)が嘆き呟く傍で恵美子が立ちすくんでいた場面から後の恵美子が卒業後の時間は、脚本を書いた荒井晴彦による言わば“アンサームービー”だった。

 その顛末は、いかにもありがちな立ち位置の逆転で些か凡庸だったが、荒井が描きたかったのは、その逆転した位置関係よりも、かつて静かに「好きじゃないよ、好きじゃないけれど」(P23)、「僕はね、(女の人の身体に興味があったんだ。)君じゃなくともよかったんだ」(P32)と言いながら身体を求めて来ていたことを事ある毎に蒸し返される洋の姿だったのではないかという気がした。

 初めてのキスの後、喫茶店で恵美子が「前から好きだったんです」(P31)と告白した場面で流れていた曲が原作では岩崎宏美の♪ロマンス♪で、映画化作品では嘗て石川ひとみの歌っていた♪まちぶせ♪に替わっていたり、恵美子が洋を待ち伏せた図書室で彼の返却した本は原作では示されていなかったなか、原作小説のなかで洋の東京の下宿の本棚に置いてあったカミュの『異邦人』やサルトルの『聖ジュネ』(P101~P102)ではなく、映画化作品では三島の『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』の書棚への差し込みに替えられていたりしたところには、早熟とはいえ十代の文学少女にはない、映画の作り手の年季を感じた。
by ヤマ

'19. 9.30. Netflix配信動画
'19.10. 1. Netflix配信動画


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