『私の奴隷になりなさい』['12]
『壇蜜と僕たち~映画「私の奴隷になりなさい」より~』['12]
監督 亀井亨
演出・構成・撮影 芦塚慎太郎、有馬顕

 僕のNetflix視聴体験の契機となった全裸監督に登場する黒木香を彷彿させると話題となった壇蜜の主演デビュー作だ。十一年前にサタミシュウ著の原作小説を読んだときに官能小説というのは、基本的にファンタジーなので、どんなに生々しさを追求して描いていても、それが現実感に繋がるよりは妄想を刺激することに作用するのだが、この作品にも無論そういう要素が色濃くありながら、妄想よりも現実感を刺激してくるところが強くて少々意表を突かれた。むしろ生々しさについては、この手の作品にしては、それほど突出したものではないことが、際立つ現実感に妙味を与えているようなところがある気がする。と記した点からすれば、香奈を演じた壇蜜の熱演もあって想外なまでの生々しさがあったように思う。

 先生(板尾創路)がバーで僕(真山明大)に語る講釈のなかで、原作小説において最も重要な点であったと思われる私のしていることはSMではないし、私自身、SMに興味はない…私が他人よりも異常なことがあるとすれば、それは調教癖というものだろう。もしそれをSMと呼ぶのであればそれでかまわないが、その場合、SMとは嗜好ではなく関係性の問題だ。との台詞は映画化作品にはなかったが、その趣旨はよく踏まえた映画化だったように思う。原作読了時に嗜好や趣味としてのSMではなく、B&D(ボンデージ&ディシプリン)によるDS(ドミネーション&サブミッション)というものを明確に区分して意識しているからなんだろうが、そういう強い自覚の下にある作品であることが、現実感をもたらしているのかもしれない。と記した部分は、映画化作品でも反映されていたように思うが、“僕”のキャラクターが原作に比べてひどく凡庸になっているような気がした。

 それもあってか、香奈の最後の台詞は原作どおりなのだが、原作小説を読んだときに冒頭場面を奥行き深く活かすような最後の顛末を期待させられていた点からは、何とも小手先技に走った仕舞いのつけ方で、ちょっと拍子抜けしたのが残念と記したような拍子抜けすら抱かなかったのは、原作文庫本の解説でリリー・フランキーが「極端な言い方をすれば“SMを取り込んだ青春小説”であり“爽やかな匂いのするSM小説”ではないでしょうか。」と評したテイストを映画化作品で醸し出すことを端から企図せず、小説の冒頭場面などおくびにも出さない構成によって映画化していたからだろう。


 先に観た映画『私の奴隷になりなさい』が壇蜜の演じた香奈の物語なら、『壇蜜と僕たち~映画「私の奴隷になりなさい」より~は、香奈を演じた壇蜜を捉えた作品かと思いきや、本編映画が原作小説の“僕”を語り切れていなかった代償であるかのように、ナレーターの小木茂光が、ずっと僕語りを続ける作品で、壇蜜という女性にはまるで迫ることのできていない凡作だった。当時、三十二歳の壇蜜の台詞ではない言葉を聴けるかと思って観たのに、とんだ見込み違いだった。
by ヤマ

'19. 9.24. Netflix配信動画



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