『瘋癲老人日記』['62]
監督 木村恵吾

 大映出身女優の松竹映画『道頓堀川』、日活映画『ラブレター』と続けて観賞して宿題を片づけた余勢を駆って、大映女優のど真ん中の宿題作品を観ることにした。本作の若尾文子も『道頓堀川』['82]のときの松坂慶子と同じ頃合いで、実に仇っぽいのだが、まち子(松坂慶子)の醸し出していた“清々しい色香”とは対照的な“ねっとりとした魔性”を漂わせていて、圧巻だった。颯子という名が、ある種の皮肉に映るような老獪さが印象深かった。

 際立った悪女役は他に幾つもあるように思う若尾文子だが、タチの悪さでは最高級のように思った。だが、悪態悪口を晒しながらも、義父に対してけっこう甲斐甲斐しくもあるように感じ、そこのところは、若い時分に観ても想い及ばなかったような気がしたが、先ごろ公開時以来の再見を果たした両作とは違って、今回が初見なので、往時との比較の仕様がないのが残念だ。

 名高い脚フェチものだと仄聞していたが、映画化作品の本作においては、督助(山村聡)に脚フェチはなく、脚しか許されていなかっただけで、彼自身は脚以上のことを熱望し続けていた。だが、映画のカメラのほうは、確かに脚フェチを意識していたように思う。

 それにしても、当時、五十二歳で七十七歳の老醜を熱演した山村聡に感心した。彼自身は九十歳まで生きたから、自身の喜寿をも通過しているわけだが、五十二歳のときには実感できなかったはずの七十七歳を迎えたときに、四半世紀前に自身の演じた七十七歳のことを思い出したりしただろうか。

 邦彦(『道頓堀川』)の十九歳は遥か彼方となり、都志春(『ラブレター』)の五十三歳も遠くなりつつある僕も、さすがに喜寿は未踏の領域だ。督助老のような妄執に囚われていたらと怖気づくも、あんな大きな猫目石を若い女に買い与える財力はないことだし、同じ轍は踏みようがなかろうとも思った。でも、未踏の領域が何だかおっかなく思えて来たりもして、あまり愉快な観賞とはならなかった気がする。もっと若い時分に観れば、今より他人事気分で観られるのだろうが、あと十五年もすれば、自分にも訪れる歳だと思うと、心穏やかにはいられなかった。

 また、'60年代から'70年代の高度成長期を経るまでは財閥解体のされた戦後日本ではあっても、今でいう格差社会というものが厳然としていたことに改めて思い及んだ。同居する息子(川崎敬三)の嫁である颯子の要請で庭にプールを造成しようとしていた督助の住む御屋敷には、住込み女中に加えて住込みの看護婦までいるわけで、片や息子の入り浸るダンサーの住む木造アパートとの格差は相当なものだ。そして、分限者が愛人を囲うことが“男の甲斐性”として当たり前のような感覚は、先の2019年度優秀映画観賞推進事業Uプログラムで観た日中戦争時代の作品『エノケンの頑張り戦術』['39]と戦後映画の『ジャンケン娘』['55]や『君も出世ができる』['64]とで何ら変わるところのないものだったように、本作でも風俗的前提になっていたような気がする。
by ヤマ

'19. 8.13. DVD観賞



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