『シンドラーのリスト』(Schindler's List)['93]
監督 スティーヴン・スピルバーグ

 四半世紀ぶりに観て、改めて大した映画だと思った。モノクロ画面の物語に突如現れた少女のコートの色は、もっと鮮烈な赤だった覚えがあるのに、えらく地味な色合いで驚いた。公開当時、毀誉褒貶の著しい作品だったことに意外な思いを抱いた記憶もあるのだが、僕自身、高評価を付しながらも、オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)の改心というか目覚めが、何ゆえに起こったことなのか妙に釈然としなかったことも、併せて思い出した。

 しかし、四半世紀ぶりに再見すると、シンドラーにとって金儲けに都合がいいだけの意味しかなかったユダヤ人への想いが何ゆえ変わったのか、だけではなく、シンドラーにまつわる愛人関係やナチスとの交友関係も含めて、シンドラーという人物を描くことに主眼を置いた作品ではないことが明白であるように感じた。主眼としては、ホロコーストに晒されたユダヤ人の驚きと不安、いくら何でもの楽観、脱力、懸命の努力、希望や安堵といったものを生々しく描出しようとしていた作品なのだ。ユダヤ人のスピルバーグからすれば、それはむしろ当然のことのような気がする。突き付けられた銃の不調によって空砲となり、引き金を引く音を重ねて聴かされるたびに身を震わせていたユダヤ人囚人の精神的苦痛の程が、強く印象に残っている。

 そういうなかにあって、世知に長け欲に正直な生き方を恣にしていたシンドラーの改心は非常に大きな転換点であったからこそ、その変化が彼に訪れていたことを空疎な“色のない世界で生きていた彼が色づきを見いだし始めたという印象深いイメージショット”で描出していたのだろう。エピソードの積み重ねによってロジカルに説明していく手法とは正反対の鮮烈な場面演出によってイメージ的に得心させてくれる手法に長けた、いかにもスピルバーグらしい描き方だと改めて感心した。

 シンドラーが、己が生きている世界に色を見いだすようになった理由は別に必要なく、彼がそうなったことを明確に示すことが必要だったのだろう。一つの理由で人がそうなるものではないことのほうがむしろ実際的だ。最も大きく作用したのは、彼のホーロー容器工場による成功を支え、彼自身が実質的な経営者は自分ではなくイザック・シュターン(ベン・キングズレー)だと認め、敬服していたユダヤ人会計人の存在と、プワシュフ強制収容所であまりに苛烈で横暴なユダヤ人虐待を行っていたアーモン・ゲート所長(レイフ・ファインズ)が繰り広げていた凄まじい蛮行だったような気がする。

 シンドラーから“許すパワー”について説かれ、試しつつも性に合わないと翻していたゲート少尉だったが、シンドラーが色づきを見いだし始めたあたりから、心なしかゲートの蛮行も少し穏やかになっているように感じた。リーアム・ニーソンもレイフ・ファインズも本作が出世作だったような覚えがあるが、改めてそれに足る存在感だったと想い起した。

 最後に本作に登場した主な人物の本人もしくは所縁の人物が当人を演じた役者と一緒に並んで、僕の生まれた1958年にイスラエルから“正義の人”として顕彰されたとのシンドラーの墓参りをする長蛇の列が映し出されることで、架空の物語ではないことを印象づけられるとともに、現に生存している姿を見せることによってまだ歴史上の話にはなっていないことを示していたのがひときわ感慨深かったことを思い出した。そんななか今回の再見では、戦後まもなく事業家として失敗し離婚もしたとのシンドラーの元夫人エミリーその人が参列していたことが目を惹いた。

 ちょうど上映会主催者の牧師から参考資料として貰っていた、ネットから拾い出したという記事のなかに、会社運営もユダヤ人救出もシンドラーより自分が功労者だとエミリー・シンドラーは主張しているとの記事があり、本作の原作となったトーマス・キニーリーの著作は、そのエミリーへのインタビューもないままのものだったとのことで、そういう原作に異を唱えるエミリーが何故その映画化作品に出演したのか、大いに気になった。それらを含めて、映画作品から窺えたエミリーの自己顕示欲とプライドの高さからすると、自分が最大の功労者なのだという彼女の主張のほうが少々信憑性を欠いているような気がしないでもない。オスカーとエミリー、似た者同士というか、いずれ劣らぬなかなかの曲者夫婦だと思わずにいられなかった。

 ともあれ、久しぶりの再見は、さまざまな触発を与えてくれ、大いに刺激的だった。
by ヤマ

'19. 8.15. 高知伊勢崎キリスト教会



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