『アルキメデスの大戦』
監督 山崎貴

 山崎貴作品らしいオープニングでビジュアル的に圧倒する構成に目を奪われつつ、一撃轟沈を謳わせる特攻隊を送り込んだ日本軍と対照的とも言える艦砲射撃をかいくぐってパラシュートで降下脱出した乗員を水上機で救出する米軍を描いた開巻場面に、端的な日米両軍の力量差を観るとともに、全体的に何だか漫画のような運びとキャラクター造形だなと思っていたら、案の定、原作は三田紀房による同名人気コミックスとのこと。それにしても、結局、巨大戦艦欲しさの嶋田少将(橋爪功)と巨大空母欲しさの山本五十六(舘ひろし)の同期少将の覇権争いでしかなかったとの、軍人ものの然もあらん物語をよくぞ防衛省が全面協力したものだと呆れた。

 結局のところ、両陣営が主張していた必要性は口実でしかなく、どちらの口実が修辞的に優っているかの“机の上の大戦【チラシ惹句より】”だったわけだけれども、論理性からも合目的性からも優位が歴然としている空母派のほうが、巧妙に守旧利権と結びつくことができていないという一点で劣勢に立つという、まるで今の電力エネルギー政策での醜態を目の当たりにしているような有り体に、何とも情けなく腹立たしい気分が湧いてきた。

 職業に貴賤はなくとも、人の身の処し方には、やはり貴賤が明確にあるように思う。山本少将・永野中将(國村準)らを美化する形に向かわなかったのは是とする一方で、平山造船中将(田中泯)を呆れるような後出しジャンケン的な論理で擁護するのは、コラテラル・ダメージ(政治的にやむを得ない犠牲)論の粋を観るようで興醒めた。だが、平山の弁には非常に重要な指摘があって、この道しかないと戦争に向かわせるのは、最終的には民衆であるということだ。

 絶対的多数か相対的多数か、声高い相対的少数かはともかく、軍部が仮に途中で止めようとしても止められない流れを作るのは、大日本帝国にあっても、天皇以上に国民だったということを予見する形で平山に述べさせている部分だ。国ではなく、己が政治的経済的利得を守ろうとするために、世間をそのような方向に扇動する勢力が所期の目的を離れて制御不能の状態になってひた進む姿という構図が、まさしく現代のエネルギー政策の近未来図に重なってくるように思えた。

 新聞報道によれば、太陽光発電の大規模事業者からの買取制度を廃止し、電力会社による買取は個人事業者のみにするという、民主党政権下で推進された太陽光発電事業を露骨な形で潰そうとする方針が示されて程なく、大手電力会社と東芝・日立が原発事業の共同事業化の検討を始めたとの報道があった。政治業界的には、エネルギー業界に対する現政権への求心力をより強化するもので、経済業界的には、海外での商売も鎖された東芝・日立の原発部門の救済なのだろう。全くろくでもないことだと唖然とした。福島の人々も、次なるフクシマの人々も、現政権サイド的には、コラテラル・ダメージ(政治的にやむを得ない犠牲)でしかないわけだ。

 平山造船中将が天才数学者の櫂直(菅田将暉)少佐に「君もきっと見たいと思っているはずだ」と説いていた、世界に類のない巨大戦艦というのは、さしずめ巨大原発に他ならない気がした。敗け方の下手なこの国の人々を目覚めさせるためには、この国を象徴する名を持つ不沈戦艦の沈没が必要なのだという彼の弁は、そのまま、福島原発事故でも目覚めない人々には、鉄壁の安全原発“大和”を作り、その事故によって終結させるしかないと言っているような、暴論の極みだったわけだが、その両方ともを、真に受けてしまいそうな人が少なからずいる気がして恐ろしい。そうやって、まんまとファナティックな欲望に囚われた人を支持し、犠牲を蒙ることに巻き込まれるのは何としても避けたいのだけれども、先の大戦のようなことが、やはり起こってしまうのだろうか。

 それにしても、軍隊組織では階級が全てだと山本少将がいきなり佐官に任用した櫂の上官に対する態度がなってないと苦言を洩らしていた平山中将に対して、嶋田少将の物言いが随分と偉そうだったのは、嶋田の個性なのか、造船中将の格の問題だったのか、判然としなかったのが気になった。また、アルキメデスだと数学よりも物理のイメージが強いのに、ピタゴラスではなくアルキメデスのほうの名を採ったのは、何故だろうとも思った。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-f790bf.html
by ヤマ

'19. 8.12. TOHOシネマズ3



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