『クリスマスキャロル』(A Christmas Carol)['38]
監督 エドウィン・L・マリン

 一週間前にシアターTACOGURAによる「子どものための12月公演」で観たこともあって、ちょっと楽しみにしていた上映会だ。ちょうど八十年前の映画作品のなかで百年前と語られるロンドンを舞台にした物語は、それゆえにか社会問題としての視点はほぼなくて、人の心の問題が前面に出た作品だった。

 また、字幕での訳し方の違いということもあるかもしれないが、芝居で観たサカシタナヲミ脚本の「クリスマスで得をしたことはないかもしれないが、いいことは起きる」という台詞のほうがグンといいように感じた。本作でこのセリフに近い言葉を発していたのは、スクルージ(レジナルド・オーウェン)の甥フレッド(バリー・マッケイ)であって、会計士ボブ(ジーン・ロックハート)ではなく、サカシタ版のボブは、言わば本作のフレッドとボブを足し合わせたような人物だった。

 だから、スクルージに無視された祝宴への招待も本作ではフレッドだったわけだが、僕は、サカシタ版のほうがずっとすっきりしていて、焦点も定まっているうえに社会性も窺えて、優れているような気がした。ただ八十年前の作品となれば、薄給で雇われているボブがいかに好人物であれ、主人のスクルージをクリスマスに招待するという設定が無理だったろうとも思う。

 子沢山のボブの住む家がそう貧しそうには見えず、また、子沢山で賑やかなのも、スクルージの孤独との対照ではあるにしても、少々違和感があり、サカシタ版での足の具合の悪いティム一人のほうがいいように思う。むろん本作も悪くはないのだが、シアターTACOGURA版の良さを再認識できたような気がした。

 また、ちょうど観賞前夜、シアターTACOGURA版を演出した藤岡武洋と呑んでいて、未来の精霊が手を差し出す場面にサカシタが拘っていたけれども、演出担当として敢えて割愛したという話を聞いていたから、映画版の本作がかなり印象深く未来の精霊の手を映し出していることに目を奪われた。サカシタナヲミは、'38年版の本作を観ていたのかもしれないと思った。

 この作品も69分とコンパクトにまとめられていて実に好もしいのだが、本作のエピソードや人物をかなり割愛しながら、同じくらいの長さで構成していたサカシタ版のメリハリの利いた脚本は、相当に出来が良かったような気がする。
 今回観劇した芝居は、一年前に観たものの再演だったのだが、そのときの備忘録で触れた社会意識がやや後退し、こじんまりとした劇場規模を活かしたとも言える人形やポップアップブックなどの新しい小道具が愉しく、大いに目を惹いた。そして、役者が三人増えたことで配役が判りやすくなるとともに、演出が前回公演以上に、子どもの側に寄ったものになっているように感じた。

 ボブ夫人(伊藤麻由)のリボンの色が僕の好きな緑から明るい茶色っぽい色に変わっていたのは残念ながら、精霊たち【過去:前回と同じく行正、現在:奄莉、未来:清里達也】の衣装は、前回と変わらず子どもたちの目を惹いたように思う。今回千と千尋の神隠し['01]のカオナシを想起させた未来の精霊の見せ方は、前回のほうがよかった気がするけれども、総じて舞台効果は向上していたように思う。また、ボブ(山田憲人)に柔らか味が増しているように感じられて印象深かった。前回と同じ配役なのに、演出の変化だろうか、役者の変化なのだろうか。

 百八十年前の作品をいま上演するという点では、芝居としての僕の好みは、初演となる前回作品のほうなのだが、「子どものための12月公演」ということなら、今回の再演作品のほうが、よりその趣旨に適った作品になっているような気はした。

 それにしても、同じ作品を初演と再演、映画版と演劇版という複数の角度から比較できて、なかなか面白い機会が得られた。それぞれの違いゆえに生じてくる効果のようなものは比較対照によってこそ、明確になることがよく判った。
by ヤマ

'19.12.14. オーテピア高知図書館4Fホール



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