『千と千尋の神隠し』
監督 宮崎 駿


 欲を戒め、不法投棄と環境汚染を憂い、失われゆく日本の風物と自然を惜しみ、人間を越えた不思議な力との共存のなかで人が生きていることを訴え、名前というアイデンティフィケイションと働く経験の大切さを説き、損得勘定や思惑を巡らすのではなく直面した状況に対して全力で立ち向かうことを称揚して、愛と勇気の力を讃える。実にこれだけの訓辞を垂れながら、あの程度の説教臭さしか漂ってこないのは、驚異的だ。

 なんと言っても、映像の持つ緩急のリズムが見事だ。広くゆったりと構えたときの大きさ、静かに流れる視界の動きに漂う情緒、実写カメラでは困難な移動距離を縦横無尽に駆け巡るスピード感のもたらす高揚。巨大な構造物や天空と水中を舞台にしたときの宮崎アニメは、他の追随を許さない。加えて、ディズニ-的なコケットリ-を含んだ愛らしさとは一線を画したキャラクター造形の巧さがある。不気味さや奇妙さというものと愛敬を併せ持ち、無愛想で味のある異形のものたちが続々と登場する。

 強い印象を残しているのが、零れ落ちない涙の場面だった。一滴たりとも落ちることなく空中に舞い上がる涙は新鮮で、これこそはアニメーションならではの表現だと思う。実写系の作品では、たとえCGを使おうとも表現できないハイライトシーンだ。

 だが、『もののけ姫』で善悪正邪を問いがたいスケール感のある世界を描いた後の作品にしては、盛り沢山なわりに単純な世界観で奥行には乏しい。千にもアシタカのような葛藤は見られない。しかし、それらは作り手が確信犯的にそうしていることであり、単純化されたゆえにまた観客の支持は得られやすいのかもしれない。

 映画を観ていて、あまりの心地よさに却って疑問を触発されたのが、見事なまでに美しい自然と風景の描写であった。なまじ環境問題というものが提起されていたからかもしれないが、自然や風景の美しさというものを空調の効いた暗闇のなかで絵に描かれたものとして観て賞賛し、心地よくなっていてどうなんだろうという疑問だった。我が子らが小さかった時分は、この映画に出てくるような山や森や海にもよく出掛けたものだったが、いつのまにかそれも遠い日々となっている。それは確かに名状しがたい感銘を与えてくれたものだ。そして、記憶にあるそれらの風景は、当然のことながら空調設備とは無縁の場所で、そこに至るには、汗をかいたり、多少は荒くなった息を継ぎながら、いささかの肉体疲労とともに味わうはずの場所であった。その記憶が遠くもない形で再現できるうちはまだ、こうして間接的に表現されたもので楽しむことにも忸怩たる思いはなかったのだが、今や明らかにそういった場所に赴くこと自体が大儀になってきている自分を感じるだけに、そのくせして自然や風景を愛でる気分だけを安直に味わってしまうことに落ち着きの悪さが残る。なまじっか、そういった風景を直に楽しみたければ、出向きさえすれば、すぐ簡単に手が届くところに住んでいるから余計にそう思うのかもしれない。

 都会に住んで、人工的な暮らしにどっぷりと漬かっていながら、こういった映画や写真を観るだけでいて、自然がどうのとか、環境がどうのとか言っている人々に対して、少なからぬ抵抗感と不信というものを感じるのは、僕が中途半端な場所に住んでいて、そんな奇妙な葛藤を自然と風景というものに対して常日頃、感じているからかもしれない。
 ところで、釜爺には『天空の城ラピュタ』以上に、『ツバル』(ファイト・ヘルマー監督) の盲目のボイラーマンであるカール親父を思い出したのだが、偶然によるものだとは思えないほどイメージが似ていた。実際のところは、果たしてどうなんだろう。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei/sentotihiro2.html
推薦テクスト:「マダム・DEEPのシネマサロン 」より
http://madamdeep.fc2web.com/sentotihirono.htm
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2001secinemaindex.html#anchor000645
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_10_29.html
by ヤマ

'01. 7.26. 東 宝 1



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