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『風の向こうへ』(The Other Side Of The Wind) 『オーソン・ウェルズが遺したもの』(They'll Love Me When I'm Dead) | |||||
監督 オーソン・ウェルズ 監督 モーガン・ネヴィル | |||||
映友に勧められてNetflix配信動画で『全裸監督』を観たところへ、また別の映友からNetflixを観ることができるのなら、と勧められて『風の向こうへ』を観てみたら、もうひとつの『全裸監督』とも言うべき映画を観た気がして何だか可笑しかった。ナイスですね~と繰り出して女優を喘がせる村西とおるにしても、抜群にシルエットの美しい女性(オヤ・コダール)を全裸にしてあちこち歩き回らせていたオーソン・ウェルズにしても、映画を撮ることへの熱量の半端なさと、製作中の振舞いの訳のわからなさには、何だか共通しているものがありそうに思った。 奇しくも諧謔的に「年寄りが理解しようとしている…そういう映画なのか」との台詞が作中にあったが、自殺のようにも解せなくもない最期を遂げたらしい老監督の半ばヤケクソめいた生前葬的パーティを眺めながら、四十年近く前に未完のまま没したオーソン・ウェルズは、ジェイク・ハナフォード監督(ジョン・ヒューストン)に何を託して本作を撮ったのだろうと思わずにいられなかった。なんだか壊れているような、企みに満ちているような、ちょっと衒学的な映画で、ヌーベル・バーグやニューシネマを意識しつつも異なる文脈で新たな映画を創造しようと足掻いている自身を揶揄しているようにも映る作品だった。 それにしても、劇中未完作『風の向こうへ』でのラストシークエンスと思しき、ネイティヴ・アメリカン女性が全裸で彷徨う荒野にて、倒れる巨大ペニスを模したオブジェが現れ、男の首が飛ぶシーンは、その美しさとバカっぽさに唖然とさせられた。 それはともかく、もしオーソン・ウェルズが完成させていたら、絶対に122分もの長尺にはしていないはずで、おそらく90分、少なくとも100分以内に収めているに違いないと思った。 翌日にでも関連ドキュメンタリーとの『オーソン・ウェルズが遺したもの』を観てみることにしようと思っていたのだが、長男家族との泊旅行や次男家族の帰省やら観劇で一週間ほど遅れてしまった。観終えると改めて、なかなか的を射た辛辣な原題だなと感心した。本作によれば、クロアチア人女性のオヤ・コダールは、オーソン・ウェルズの愛人だったとのことで、ますますもって村西とおると黒木香のことが偲ばれ、『風の向こうへ』が『全裸監督』に重なってくるように感じられた。 '66年から始まり、'70,'71,'74,'75,'79,'82年と『風の向こうへ』の製作・頓挫過程が、さまざまな証言と残されている映像によって綴られていたわけだが、『風の向こうへ』という映画とそれを制作している老映画監督の古希祝いのパーティの一日をドキュメンタリー的手法でフィクショナルに構成したオーソン・ウェルズ作品を観た後で、その制作事情を語るドキュメンタリー映画である『オーソン・ウェルズが遺したもの』を観ると、何だか錯綜するような眩暈感に見舞われた。とにかくピーター・ボグダノヴィッチが両作ともにおいて、非常に重要な位置を占めていたことだけは、間違いないようだ。 そして、オーソン・ウェルズが『市民ケーン』['41]を“俺の呪い”とも言っていたとの証言が印象深かった。確かに、新作を撮るたびの比較基準が常に、映画史上の最高傑作の一つとされる作品であるというのは、当人にしてみれば、相当に厄介なことだったに違いなく、しかも若い時からずっとついて回ったわけだから、酷と言えば酷な話だ。そのようなものへの囚われから放たれたウェルズによって編集された、劇中作として登場していた『風の向こうへ』だけの完成版を観てみたかったと思わずにいられなかった。 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://www28.tok2.com/home/sammy/archive/wind.html | |||||
by ヤマ '19. 9. 8. Netflix配信動画 '19. 9.16. Netflix配信動画 | |||||
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