『教誨師』
監督 佐向大

 真面目な映画だとは思うものの、なんか微妙な蟠りが拭えない作品だった。なぜ教誨師となった佐伯保(大杉漣)の過去にあのような設定を置いたのだろう。確かに非常に気の重たい仕事だとは思うし、そのことが縷々誠実に描かれていたけれども、さればこそ、そのような仕事をボランティアで望む牧師に対して、一見ある種、安易なまでに判りやすい背景を負わせてしまうのは、むしろ不誠実なことにさえなりかねない気がしてならなかった。

 教誨師を志す牧師には、それなりに特異な事情があるといわんばかりの設定だと受け取る観客ばかりではないのだろうが、こういう作品においては、死刑囚のほうにも彼らに寄り添う教誨師のほうにも、観る側が“地続き感”を得られるような人物造形を果たすべきだという気がしてならない。少年時代はいわゆるワルだったのが身近な人の死によってというような事情を置くこと自体には何らの違和感もないけれど、佐伯の場合は、少々手が込んでいるというか、重きに過ぎる事情が設えられていたことが、興醒めに繋がった。

 そうなると、それまでさほど気にならなかった六人の死刑囚たちの人物造形も、少々作り込みに過ぎる気がしてきた。役者陣の演技力の確かさによって、各人の特異性を含めた人物像の自然な造形が果たされているように感じていた部分が壊されたような気がしたのだった。

 ごく最近あった相模原事件を思わせる高宮(玉置玲央)の能弁と最後に見せる姿にしても、おしゃべりな野口(烏丸せつこ)の語る“おっちゃん”の存在にしても、文盲だった進藤(五頭岳夫)がグラビアに遺した言葉にしても、気の弱い小川(小川登)の人の好さにしても、鈴木(古舘寛治)の無言と爆発にしても、ヤクザの組長(光石研)の饒舌にしても、妙に作り過ぎのような気がしてあざとく感じられてきた。

 本作の監督・脚本を担った佐向が脚本を書いた休暇は、なかなかいい作品だった覚えがあるのだが、本作は少々やり過ぎたような気がする。

by ヤマ

'19. 5.25. 自由民権記念館民権ホール



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