『しゃぼん玉』
監督 東伸児

 人が人であればこそ、既定の善人だとか悪人だとかいうキャラクターとしてプログラムされた通りのものであろうはずがなく、荒みもすれば、再生もするということを綴った本作を観ながら、アンチエイジングぶりばかりが称揚される昨今のスーパー爺婆ではなくて、旧来スタイルにおけるスーパー爺婆の姿というものが何とも沁み入ってきた。二人との出会いがなければ、引ったくりを繰り返していた伊豆見翔人(林遣都)の更生はなかったという物語だ。

 乃南アサの原作小説は未読で、それがいつの時代のものか知らないが、今や歳は重ねても、スマ婆(市原悦子)やシゲ爺(綿引勝彦)のような形での年輪というか、年季の積み方ができる生活を営んでいる高齢者は、田舎でも絶滅危惧種に属してきているのではないかいう気がしてならなかった。僕自身もそろそろ高齢者に向かいつつあるが、とてもスマ婆やシゲ爺の域には向かえそうにはないし、さりとて歪なまでに若々しい現役感を追求することも適わない。

 スマやシゲになるには、その人となりを形作ることに見合った生活歴が必要なわけで、それをしないままに歳だけ重ねてもなれるものではないのだ。伊豆見に対して手篤く世話をしつつ「坊はええ子じゃ」と呪文のように繰り返し、ろくでなしになってしまった息子(相島一之)に対して、地域社会の枠を出て自立するような生き方が向いていないのに、希望に沿うようにと夫を説得して都会に送り出してしまったことを、親として詫びているスマの姿が印象深かった。

 人の人となりを創り上げるのは、才能資質などといった遺伝的要素よりも、生活や環境なのだと改めて思う。どう転んでみても、スマやシゲのようなスーパー爺婆になれる年季の積み方をしてきてはいないことへの確信が湧いてきて少々萎えた。また、近ごろめっぽう目につくようになった“映画での食のクローズアップ”が本作にも認められることが目を惹いた。シゲ爺のように猟銃を撃つことのできる狩猟免許所持者の減少と高齢化が問題化して久しいが、それこそ生活や環境を抜きにして免許だけで片がつくような話ではない。スマやシゲが発揮していたような忍耐強い勤労精神と肉体を日本人が取り戻すことは、最早ありえないようにも感じられ、更に萎えた。

 
by ヤマ

'18. 1.21. あたご劇場



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